knocking on your door(9)

 俺の背中にすがり付いているミズノが青褪めているのが、振り向かなくても判る。
「何、……で……」
 か細い声で呟いたミズノの声は、きっと俺にしか聞こえなかった。
 『何で』?
 何のことだ。
「透くん、こんなところで働いていたのかい。僕の会社すぐそこなんだよ。――偶然だね」
 中年のおやじ――歳は三十そこそこだろうが、権力にすぐ折れれるくたびれた腰を持ってるヤツの顔は俺にはそう見える――はそう言って、下司な笑みを浮かべたままカウンターに近付いてきた。
 ミズキ、という女を俺は盗み見た。
 急に金縛りに遭ってしまったミズノと俺を、心配そうな、怪訝そうな目で見ている。
 何が何だか俺にもさっぱりわからねぇ。
 この場を取り繕おうなんて気の利いたことも出来ねぇ。
 でも、ミズノが俺の背後で後ずさりを始めた。
「透くん?」
 ミズキという女がやっと声を出したのと同時に
「逃げんな!」
 俺は叫んでいた。
 カウンターの中に腕を伸ばして、ミズノの腕を掴む。
 はっとした表情でミズノは顔を上げた。
 中年オヤジはそんな俺とミズノをどう見てか、決定的な言葉を唇に乗せた。
 曰く、
「聡志くんは元気にしてるのかい?」
 うるせえ。
 俺はそう怒鳴ったのかも知れない。
 とにかく気付いたら、男を殴り飛ばしていた。
 店内の椅子が三、四個派手に吹き飛んだ。
 きゃあ、と今まで無関心を装っていた他の客が悲鳴を上げて席を立つ。
「斉丸!」
 泣き出しそうな顔をしてミズノが俺を呼んだ。
 どういう表情なんだ? わかんねぇな。
 この男がミズノの何なのかわかんねぇし、殴り飛ばして良かったのか悪かったのかもわかんねぇ。
 俺はどうしてこの男を殴ったんだろうか?
 聡志、と言ったからだ。
 この男が、ミズノの怯えている男の名を口にしたからだ。
 どうして俺がミズノのことでこんなに怒らなきゃならねぇんだ?
「斉丸……」
 唇をきゅっと噤んで、悲痛な表情をしたミズノが呟く。
 きつく閉じられた唇は白くなって、眸が濡れている。
 とにかく。
「笑え!」
 俺は店内に響き渡る声で、力いっぱい声を張り上げた。
「……え……?」
 ミズノが、豆鉄砲を食らったように目を瞬かせた。
「笑え!」
 嘘でも何でもいい。
 笑っている内に、自分もその嘘に飲み込まれちまえばいい。
「斉……」
 声が大きい、と咎めるように俺の名を呼びかけたミズノを、俺は畳みかけるように怒鳴り飛ばした。
「いいから笑ってろ!」
 ミズノは俺に圧倒され、息を詰めて俺を見ていてから、
 やがて観念したように
 笑った。

 客を殴り飛ばしたのも大声を出したのも俺で、ミズノは何もしていないと訴えると、ミズキとかいう女は透くんを辞めさせようなんて思ってなかったわ、と笑った。
 後から付け足された「織野田くんもまた来てね」っていうのはどう考えたって義理だろうが。
「斉丸」
 仕事帰りにたらふく食糧を買い込んだスーパーの袋をキッチンの床に置いて、ミズノは何でもない風に言った。
「……ありがとう」
 俺は少し間を置いて考えてから、
 聞いてない振りをした。
「こんな風に優しくされるのは、久しぶり――初めて、かも知れない」
 ちらりとミズノを盗み見ると、顔が見えなくなるほど深く俯いたミズノがいた。
「俺の母さんはある男の愛人で、たった一人で俺を産んだんだけど、……そのあと別の男を作ってその人が俺の父になったんだ」
 ミズノが何を話し出したのか、俺には判らなかった。
 こんなことが前にもあったっけか。
「安いドラマみたいだろう? ……酷い男、だったんだよ。母さんはその男のためなら何だってした。俺は学校もろくに通えなくて、ある時、血の繋がった父親に逢いたいって言われたんだけど、怖くて逢えなかった。
 俺の周りに、斉丸みたいな人はいなかったよ」
 ミズノが弱々しく笑って顔を上げたので、俺は慌てて目を逸らした。
「家を出てからもずっと、優しそうな人に限って酷いことをした。――聡志、みたいに。……でも、判ったよ。俺は住んでる世界が悪かったんだよ。工事現場のおじさんたちもみんないい人だった。瑞貴さんもすごくいい人だ」
 牛乳パックを冷蔵庫に突っ込んでいる俺の背中に、ミズノは一度噤んだ唇をゆっくりと開いた。
「斉丸」
 俺は冷蔵庫を勢いよく閉めると、立ち上がった。
「俺、タバコ買ってくんの忘れた」
 ばさばさと前に落ちてくる髪を結い直しながら、悪ィけどちょっと出てくるわ、とミズノに手を掲げる。
 その手を、ミズノが掴んだ。
「……」
 縋るような目で俺を見る。
 それを一度伏せてから、きっとした表情に一変させた。
 凛々しいじゃねぇか?
「斉丸」
 ミズノの小さい喉仏が上下した。
「俺、斉丸のことが好きだ」
 俺はミズノの手を振り解いた。即座に。
「ああ、そりゃどーも」
 玄関に降りて、サンダルを引っ掛ける。
 ミズノは追い縋ってこなかった。

 俺はタバコワンカートンを、自販機で一個ずつ買った。
 牛歩戦法って言うか、なぁ。
 俺はそんなことを思いつつ一人で笑った。
 いくらこんなことをやったって一晩中も一年中もここにいられるわけじゃない。
 あれは俺の家だ。
 帰らないわけにいかねぇ。
 十二箱目のマイルドセブンを手にして、俺は家に戻る決心をした。