knocking on your door(8)
家から歩いて五分ほどの所、駅に向かう大通りからは外れた静かな道の脇に、ちんまりと居を構えている喫茶店。濃い緑色の看板にクリーム色で「幸せの木」と書いてある。
名前は冴えないが、店の雰囲気は悪くない。小さいけれど足を運び易いし、入った瞬間鼻先を擽るコーヒーの香りが何とも言えない。それこそ店の名前を横文字にでもしたら穴場好きの雑誌にでも取り上げられそうな感じは醸し出している。
……つまり、俺には縁遠い店だってこった。
「いらっしゃいませ」
珈琲豆を挽いていた女が顔を上げ、にっこりと笑った。三十半ばってとこか。悪くない。
「あっ斉丸!」
木製のカウンターの奥にいる女と俺の間にもしかしたら甘いロマンスでも生まれようかという重要な勝負時を割って入ったのはお盆を抱えたミズノの声だった。
「……いらっしゃい」
とってつけたようにこっちもにっこり笑って挨拶。
俺はその表情の奥に怯えを探した。まさか俺に怯えている訳じゃないだろうが。
「本当に来てくれたんだ、嬉しい」
俺にカウンタ―を勧めながら、ミズノはいつになく無邪気に笑った。
「腹が減ったのにカップラーメンはねぇし、お前朝パン全部食って行きやがったろ」
勧められるまま腰を下ろし、顰め面をミズノに向けると
「だってあれ賞味期限きれてたし、あと二枚しか残ってなかっただろ?」
言い掛かりをつけられたみたいな言い方をして、ミズノは俺を睨み返した。その様子に俺は少し笑って、
「とにかくメニューを頼む」
客に命じられたウェイターは、睨みつけていた目を細めて直ぐに笑顔に戻り、メニューを取りにテーブルを振り返った。
……こんなに無邪気そうに見えていても
これも、作りものなのか?
「透くんのお友達ですか?」
カウンターの中の女が静かなトーンで言った。ひたすら甲高い声ばっかり張り上げる若い女に飽き飽きした男を優しく包み込むような、良い声だ。
「斉丸だよ、瑞貴さん。ほら、俺が居候させて貰ってるっていう」
ミズノがメニューを抱えて、何故か誇らしげに言う。みずき、と俺は口の中で呟いた。濡れたような黒髪、穏やかな瞳、肉付きの良い唇。俺好みだ。
「そう、大きい人ね」
俺の目を真っ直ぐ見詰めて微笑む、そこにはやましい気持ちを抱いた俺に対して母親のような優しさがあって、俺はばつが悪くなって俯いた。
「……」
俯いた俺はミズノの差し出したメニューに目を落とし、暫らく言葉を失った。
珈琲が480円?
思い返せば俺は喫茶店なんて洒落たものに入った人生経験が全くなく、マックのメニューしか比較対象を持ち合わせてない。
……こんなもんなのか?
「斉丸、何にする?」
動きを止めた俺の顔をミズノが覗き込んで尋ねた。
「あんたが言ってたサンドイッチランチと珈琲で良い」
その鼻先にメニューを突き返して言う。
もう二度とこんな店にはこねぇぞ。
そう思って見るとこの瑞貴とかいう女の顔も憎らしく思えてくる、清楚な仮面をつけた金食い女なんじゃねぇのか? 宝石やらブランド品に拘る女が特別嫌いってこともねぇが、清楚な振りをするってのはどうかねぇ。
「瑞貴さん、俺珈琲淹れるね」
メニューをテーブルの上に戻したミズノは、うきうきとした様子でカウンターに入る。
「あらあら、スペシャル待遇ねぇ」
何のことだか知らねぇが、二人はカウンターの中で仲睦まじく俺のランチを作っている。時折視線を交わしてみたり、同じものに手を出して触れ合っちゃってみたり
ミズノの所為で女も連れ込めない(エロビも見れない)、職場もおやじだらけっていう俺の身の上からしてみたら面白くないことこの上無い。
心中鼻先で笑って、俺は店内をそれとなく見回した。
サラリーマンらしき男が一人窓際で珈琲を飲み、奥の方の席では二十代前半のカップルが静かに語らいながらパフェを突付いている。
店内には緩やかなメロディーのピアノ曲が流れていて、……眠くなりそうだ。
俺じゃ二日ももたないだろう。
「はい、先に珈琲」
ミズノが身を乗り出し、カウンター越しに珈琲を差し出した。これこれ。せめてもの眠気覚ましになるだろう。
「熱いから気をつけてね」
「透くんの入れる珈琲はとっても美味しいのよ、めったに淹れてくれないんだけど」
サンドウィッチを作る手を休めずに女が言う。
「だってまだバイトの分際だし……」
ミズノが照れくさそうに笑うと、
「そんなの関係無いわよ。あの横田さんが唸ったほど美味しいんだもの、店の売りに出来るくらいだわ」
会話は俺の預かり知らない方向へ去って行った。
別にどうでもいいことだが。
俺は珈琲カップに手を掛けて口へと運んだ。これっぽっちで480円? カップ代も込みじゃねぇのか?
「ッ、ち……!」
こんなもん一口で終わっちまうだろ、とカップの中身を啜った瞬間、舌先に熱が走った。480円が宙を飛ぶ。
「斉丸!」
ミズノはカウンターの端に置いてあった濡れ雑巾を引っ掴んで走って来る。あんたにしちゃ珍しいスピードだ。
「うっわぁ」
着ていたセーターが珈琲色に染まってしまっている。
「大丈夫?」
女の声とミズノの声が重なる。ミズノの声の方が多少怒った風で、大きかった。
「だから熱いって言っただろ、まったく子供じゃないんだから」
三つ年下だけどね、と言って
ミズノは笑う。俺の胸元を濡れ雑巾で叩きながら。
俺の顔の直ぐ真下にミズノの頭がある。
香ってくる香は俺と同じシャンプー、石鹸の匂いで
だけど、恐らくミズノ個人の持つ体臭と混ざって、俺のとは違う香になっていた。
「みっ、水野サン」
俺は慌ててミズノの手首を掴んで止めた。
「自分でやるから良い」
「あ、ごめん」
そうだよね、と言って顔を上げたミズノと
至近距離で一瞬見詰め合う形になる。
やべぇ。
熱でぐでんぐでんになったミズノの口に白粥を運んでやった時のやべぇ感じを思い出す。
「火傷しなかった?」
カウンターの女が言ってやっと、俺はミズノの顔から目を逸らした。
ほんの一瞬のことだ。
「あ、平気ス」
セーターがおじゃんになっただけで。
「じゃあ俺、珈琲淹れなおすね」
小走りになって、ミズノはカウンターに向かった。その間顔を伏せていたが、カウンターに元通り収まると、ようやく少し、笑った。
「ごめんね」
照れくさそうな、しかし少し影の残る
微妙な笑い方だ。
「別にあんたが謝ることじゃない」
俺も口の端で笑って見せた。
「お友達は――ええと?」
ランチが出来上がったようで、俺の目の前に旨そうなサンドイッチが並ぶ。
「織野田です」
「織野田くんは、透くんのことあんたって呼んだり水野さんって呼んだり、忙しいのね」
肩までの髪を揺らしながら、女は屈託なく笑う。
そういや、名前呼ぶ時はまだサン付けが抜けねぇな。
「だって斉丸の方が年下なんだから、それくらいしても良いよねぇ?」
冗談を言いながらミズノは淹れ直した珈琲を俺の前に置こう――としてひょいと取り上げ
「冷ましてから渡そうか?」
馬鹿を言いやがる。
呆れた目でミズノを叱り飛ばすと、実に無邪気にミズノは笑って
俺の目の前に、サンドウィッチの隣にカップを置いた。
「じゃあようやく、イタダキマス」
皿の前で手を合わせてから、先ずはたまごサンドに手を伸ばす。
俺の手に持つと小さく見えるが実際はセブンで売ってるのの半分くらいか。
「……旨い」
俺が一口飲み下してから、思わず呟くと女はほっとしたように洗いものを始めた。
これで値段が安けりゃ通うんだがな。
「珈琲は?」
ミズノが身を乗り出して子供みたいに訊く。
「まだ熱いんだろ」
ちらりと珈琲カップを見てから俺が、憮然として答えると
ミズノも女店主も大笑いした。こんな静かな店内でそんな馬鹿笑いして良いのか? ってくらいに。
「うるせぇな」
他の客の視線を背中に感じて俺が言った時、もう一人、店の扉を開いて客が入って来た。
ミズノの笑顔が制止する。
女も、小さな声でいらっしゃいませと言ったきりミズノの様子を伺うような目をしている。
「あれ? 透くん」
三十代中盤、といった感じのその何でもないような男はそう言って
――下司な笑いを浮かべた。
その笑い顔を見た途端、俺の全身に痛みのような嫌な予感が走って、席を飛び上がるようにして立った。
表情を強張らせたまま青褪めていくミズノを背中にまわす。
反射的にそうしていた。
ミズノの手が俺の背中で震えている。
「……何……で、」
小さい声で
ミズノが呟いた。