knocking on your door(7)

 ミズノに出会ったあの霧雨の日に撮り損ねて以来、やっとのことでちゃんと観ることの出来るビデオを手にして俺は上機嫌だった。
 ミズノは興味深そうに店内のビデオを見て回っている。いつもの俺なら、全くいい歳して坊ちゃんはこんな所に来るの初めてかよ? と揶揄ってやるところだがテンションの高くなっている俺は邦画のコーナーを見ているミズノに向かって声を掛けた。
「何か観たいのあったら一緒に借りてやるぞ」
 俺の優しい心遣いに対してミズノは気のない生返事を放って寄越す。ビデオを見て回ることに夢中なようだ。
「何ならAVでも借りて行くか?」
 冗談半分で言いながら、そう言えばミズノが家に来てからこっち全然お目に掛かってねぇな、と思った。
「観たことねぇだろう、あんた」
 そう言って笑った俺にミズノは振り返って
「斉丸、この間部屋掃除してたらそういう本が沢山でてきたよ」
 と低い声で言った。
「あ?」
 だから何だ、と尋ねるように俺がミズノを見下ろすと
「俺、あーいうの……嫌いだ」
 呟くようにそう言って眼を伏せる。
 俺はミズノが何を言ってるのかさっぱり判らず、人がまばらな店内に今人気の女性シンガーの甲高い歌声が響いているのを確認すると
「何だ、あんたセックスすんの嫌いなのか?」
 と声を潜めた。
 ミズノの肩がぴくりと震える。
「マス掻いたりしねぇの? 男だろ? 常識じゃねぇかよあれくらい。壁一面の本棚にエロ本並べてたわけじゃあるまいし」
 そんなのを嫌うこと自体が不健康だ、そう続けようとして俺は、ミズノが深く深く俯いていることに気付いた。
「……って……」
 ミズノのか細い声が耳を掠める。
「何?」
 背中を屈めて耳を寄せると、ミズノの声は震えていた。
「俺だって、嫌いだったわけじゃない……」
 声だけじゃない。頼りないほど細い体も肩も震えていた。
「おい」
 俺がその肩を掴むと、ミズノは過敏なまでに反応を示し、蒼白した顔が怯えたように俺を仰ぎ見た。
「……どうした?」
 服を通して掴んだ俺の掌に伝わるほど、ミズノの体は冷えていた。
「どうした」 
 繰り返し尋ね、ミズノの眼を覗き込む。
 きつく結んだ唇が言葉を紡がずに震えている。
 初めて俺は、その華奢なミズノの体を抱き締めてやりたいと素直に自覚した。
 何かに怯えている、力を持たない小さな動物のようなミズノを。
「とにかく、帰ろう」
 俺は慌てて手を離し、ミズノの顔をそれ以上見ないようにしてカウンターへ向かった。

 家に帰るとミズノはもういつもの調子だった。
 ビデオ屋で見たミズノの尋常じゃない様子は錯覚だったのかと思うほど。
 でも、それは紛れもなくミズノの隠された一面で、こいつは無理をして今、こうして笑っている。
 それに気付いた。
 いつからこいつは、こんな風に笑ってやがる?
 俺は今日初めて気が付いた、こいつの笑顔が嘘だってことに。
 今まで気が付かなかった。
 何の苦労も知らない坊ちゃんの気楽な笑顔、脳味噌空っぽなんじゃねぇのか
 ――そう思っていた。
 それほどこいつの嘘が上手だったのか
 俺がこいつに無関心だったのか?
 ……両方だ。
「斉丸、今日夕飯何か食いに行く?」
 カップラーメンないや、と大袈裟に溜息を吐く振りをするミズノ。
 俺はこいつの嘘に気付いてしまった。
 こうなってしまった以上、俺も嘘を吐き通さなければならないのだ。
 嘘に気付いていないという、嘘を。
 ミズノにも、俺自身にも。
 ミズノを本当に笑わせることが出来るほどミズノに関心が強いわけじゃない。
 嘘に気付くことしか出来ないほど、中途半端だ。
「斉丸」
 そう言ってミズノは眼を細めて笑う。
 俺はこんなに脆い人間を見たことがなかった。
「今度、俺のバイト先に来てよ」
 サンドイッチランチが美味いんだ、と楽しそうに話すミズノに一瞥くれながら
 あぁ、そうだ
 こいつに初めて逢った日の厄日をまだ引きずってるのか、などと考えた。
「……あぁ、その内な」
 そう答えて俺は、少し笑って見せた。
 どうしたらあんな風にうまく笑えるっていうんだ?

 交通整備を始めて以来初の休日、俺は部屋の床に転がって天井を眺めていた。
 一日中突っ立って棒を振り回してるってのも楽じゃねぇな。体中を蝋で固められたみたいだ。セメント運んでた方が気が楽だったな。
 休みは自由に取れるし即金になるし、そういう点では気楽な仕事だったけど、幾らまとまった休みが取れたところで、ビデオを見ることくらいしか趣味のねぇ、友達もいない二十二歳には折角の休日にもたいしてやることもなく
 女引っ掛けて来ようにも、家にミズノがいたんじゃどーしようもなかった。
 俺はミズノを避け始めていたかも知れない。
「……、」
 固い床の上で寝返りを打った。伸ばした爪先にテーブルの角が当たる。じんとした痺れが腿まで駆け上がってきて、消えた。
 俺はミズノがここに転がり込んできてから――いや、もっと前
 ミズノがバイト先にやってきて、俺の前に初めて顔を見せた時からのことを考えていた。
 考えてどうこう出来る問題じゃねぇし、どうこうしようって気もなかった。
 でも、そう
 他にすることがなかったからだ。
 それだけだ。
「てぇなぁ……」
 今更爪先の痛みが蘇ってきた。膝を曲げて体を縮める。
 漠然と物事を整理している内に、腹が減ってきた。もともと俺は頭脳労働にゃ向いてないんだ。
 取り敢えずメシ、メシ。
 考えたって判らないものを無理して考えるこたねぇんだ。こんなもんはただの暇潰しだ。
 ミズノが何に怯えているのか、なんて、俺には到底判りっこないのだ。
 一度曲げた膝で反動をつけ、俺は床から飛び起きた。
「……っと」
 そういやカップラーメンが底をついたってミズノが言ってたっけ。コンビニの弁当も食い飽きたし、近所のラーメン屋も今日は定休日だ。
 俺は部屋の中央にしゃがんだまま喉の奥で小さく唸り、腕を組んだ。今にもコサックダンスが出来そうな体勢だ。
「………」
 しょうがねぇ。
 ミズノお薦めのサンドイッチランチでも食いに行こう。