knocking on your door・Ⅲ(8)

 ほろ酔い加減の兄貴を駅まで送って、俺は十一時を回る頃、ようやく家路についた。
 明日は朝の十時から店に出なきゃいけねぇのに、酒抜けるか?
 気安く店長なんか引き受けるもんじゃなかったか、なんて何度目かの後悔をしながら、夜道を歩く。
 ――あ、
 煙草がもうなくなるんじゃねかったか?
 ズボンのポケットに手を突っ込むと、三本しか中身のない紙袋が出てきた。
 しまった、飲みに行くとやたらめったら煙草の数が増える。
 慌ててバス通りを引き返す。
 煙草の自販機が販売停止になるのって、何時からだったっけか?
 今何時だ? あー、くそ、コンビニまで行くのめんどくせぇ。
 あたりは暗く、人気もない。こんなデカい図体のニィちゃんが声かけられそうな奴らも辺りにいない。
 こんな時間に、家路を急ぐOLなんかにゃ声かけたら一発で逃げられちまわぁ。
 仕方なく辺りを見回すと、昔懐かしい工事現場が目に止まった。
 あそこなら声かけたってかまわねぇべ。
 もしかしたら知り合いがいたりするかもしれない。 
 俺は施工業者を確認しながら、顔見知りのおっさんがいたらどうしようか、なんて思いながら現場に足を踏み入れた。
 セメントの袋が山積みになっているのを見ると、ちょっと体が疼くな。
 今なら、何キロまで持てるだろう?
 ビデオ屋じゃ力仕事を一手に引き受けてるっつっても、さすがに衰えてんだろうなァ。
 ああ、試してみてぇ、……けどそれはさすがに怪しいか。
「あー、すんません」
 近くにいた白髪交じりのジィさんに声をかけると、休憩中だったらしいジィさんはびっくりした顔で振り返った。
「今、何時スか」
 腕時計を示す仕草をして尋ねると、ジィさんは、あぁ、と呟いて辺りをきょろきょろ見回した。
 オイ、時計持ってねぇんか。……俺もだけどよ。
「ちょっと待ってな」
 しゃがれた声で言ってジィさんは立ち上がり、鉄筋を運んでいる若い男を呼び止めた。
「よう、今何時だか判るか」
 声をかけられた男は鉄筋を細い肩から下ろして、額の汗を拭った。
 それから腕時計に視線を落として
「十二時五分前です」
 と答えた。
 ジィさんは俺に向き直って、だそうだ、と言いた気な表情をしたが、俺はもう、ジィさんを見ていなかった。
「……―――煙草の自販機って、何時までだか、……覚えてるか?」
 畜生。
 声が震えてきやがった。
 若い男は答えなかった。
 しばらく俺を見ていたが、やがて土埃に汚れた顔をヘルメットで隠すようにしてかぶり直し、鉄筋を担ぎ上げた。
「――おい!」
 俺はその背中を追う。
 鉄筋を担いでるのに足取りはしっかりしてるし、ずいぶん速く歩けるじゃねぇか。
 俺は男の前に立ちふさがって、腕を掴んだ。
 男は下を向いたまま、顔を上げない。
「……ずい分と」
 掴んだ腕に筋肉の隆起が判る。
 それとも、俺の記憶が改ざんされてるだけか?
「逞しくなったじゃねぇか」
 もう一方の手で、男のヘルメットを押し上げる。
 男は鉄筋を担いだままのせいで、それを拒むことも出来ない。
「今じゃ、セメント五袋くらい軽々運べるよ」
 男は視線を伏せたまま、ぎこちなく笑った。
「――……」
 俺が言葉を繋げようとした時、頭上から
「おォい水野ォ! 何やってんだ早くしろ!」
 と、オヤジの怒声が飛んできた。
「はい!」
 ミズノは凛とした声で返事をして、俺の手を振り払った。
「――――水野サン!」 
 工事中の建物を上がっていこうとする背中に、俺は叫ぶように呼びかけた。
「……仕事終わるまで、待ってていいか?」
 アンタがあの日、俺を待っていたように。
 ミズノは何も答えずに、仕事を再開した。


 東の空が白む頃、ミズノの仕事は終わった。
 俺はどうやら路肩で眠っていたらしく、肩を強く揺さぶられてやっと気がついた。
「お早う。よく眠ってたね」
 あんなこと言ってた割には、と言って、ミズノは笑った。
 反射的に、その腕を掴む。
 このまま消えてしまわないように、と。
「……どこへも行かないよ。ここで逃げるくらいなら、起こさないで帰ってた」
 帰る? どこへ。
 アンタが「帰る」場所なんてどこにあるんだ?
 ミズノはそんな俺の考えていたことが判ったらしく、首を竦めて笑った。
「貯金があったからね。聡志の家を飛び出した時とかわけが違うよ」
 自分で部屋を借りてどこかで暮らしてるって言うのか?
 いったいどこでどうしたら、アンタがたった一人で眠れる場所があるっていうんだ。
「……仕事は?」
 腕時計に目を落として、どことなく冷たい口調のミズノは言う。
「俺ももう帰って眠らないと」
 ミズノはそう言ったきり、何も言わなかった。
 何か他に言わないのかと、俺が期待している言葉はなかった。
「――……帰るよ」
 しばらく沈黙を背負った後でミズノは言って、腰を上げた。
 その腕を掴む。
「何?」
 冷たく突き放すように言うでもなく、優しく問いかけるのでもない、ミズノの声。
 その平坦さに、どうしようもなく不安が突き上げてくる。
 俺を支配していく。
 怪物の影なんかじゃない、その心ってヤツ自体が、ぶち壊されそうな、恐怖。
「嫌だ」
 ミズノの腕を必死になって、引き寄せる。
 いくらミズノが逞しくなったっつっても、俺の方がまだ力はあるはずだ。
 これが、ただの力比べで済む話なら。
「……嫌だ」
 行くな、どこにも。
 アンタが帰ってくる場所は、あの、汚くて狭いボロアパートで、安い一人用のベッドで身を寄せ合って窮屈な思いをして眠るんだ。
 アンタが欲しいなら新しいベッドを買ってもいい。
 アンタが望むなら、風呂に入る時は体が小さくなるように努力する。
 だから。
「――離せよ」
 何の感情も汲み取れないミズノの声。
「だったら何で俺の名前を呼ばねぇんだよ!」
 俺は俺の心をぶち壊しにくる不安を追い払うように大きく吼えた。朝焼けのバス通りに、声が反響した。
 あんなに、うざってぇくらいに何度も呼びやがったくせに。
 朝も昼も夜も嫌ってほど俺のことを呼んでたじゃねぇかよ。
「何で、ちゃんと笑わねぇんだ、昔みたいに」
 サトシのことを引きずってる時と同じように笑いやがる。
 俺がアンタを、サトシと同じように捨てたからか?
「……どっちが、苦しいの」