knocking on your door・Ⅲ(9)

 ミズノは言った。
「どっちが苦しいの?」
 俺は弾かれたようにミズノの顔を見上げた。
「どっちが苦しいの。俺は、どうしたらいいの」
 泣きそうな顔が、俺を見下ろしている。
 道路に座り込んで弱りまくっている俺の顔を、ミズノが今にも壊れそうな表情で見ている。
「俺がいたら苦しくて、俺が別のところで暮らしていても苦しめてしまうの? 俺はもう、俺自身の幸せなんて望んでないのに」
 小刻みに震え出したミズノの体を引き寄せて、そっと包み込む。
「斉丸が、」
 そう言った途端、ミズノは堰を切ったように大粒の涙を零し始めた。
 力いっぱいその体を抱きしめる。
「斉丸が苦しまないことだけを望んでるのに、俺は、どうしたらいいの?」
 悲痛な声を張り上げて、ミズノは俺にただ抱かれていた。
 いつもそうしていたように、背中に手を回してこない。
 それでもいい。
 俺の「気持ち」がミズノに染み込んでいけばいい。
「――悪かった。……悪かったよ」
 嗚咽するミズノの首筋に顔を埋めて、俺は何度も囁く。
「アンタに帰ってきて欲しい。俺はそれで、もう苦しまない。アンタを幸せにできるかどうかは判らねぇけど」
 俺はそこで一旦言葉を切った。
 喉が詰まったようになって、上手くしゃべれねぇ。
 やっぱりミズノの手を取って、無理やり俺の背中に回した。
 ミズノはしがみつくように、俺の背中を抱き返してきた。
「帰ったらまず、アンタに歌をうたってやるよ」
 うん、とミズノが涙声で肯いた。
「そうしたら、アンタは笑うんだ。一年前、みたいに」
 知らず、俺の声も震えていた。
 情けねぇ。畜生。
「うん、……うん……。それで? 斉丸」
 涙でぐちょぐちょのミズノの顔を、シャツの袖で乱暴に拭う。
 ミズノの服はひどく汚れていて、俺の服のほうがきれいでいやがる。
 まったく、立場が逆じゃねぇか。
「そうしたら俺がアンタに好きだと言うから、アンタは」
 ミズノは顔を不様に歪ませて、泣き笑いの表情を作った。
 いつもだったら、ひでぇ顔だと笑い飛ばしてやるところだが、俺はちっとも笑えなかった。
 好きだ好きだという気持ちばっかり、強くなる。
「そっから先は、俺が決める」
 声を詰まらせた俺の代わりにミズノはそう言って、俺の唇を封じた。

 俺はミズノを家に連れ帰り、店に休みの連絡を入れた。
 一年分たまっていた話をしたら、ミズノは
「悪い店長だなぁ」
 と笑った。
「女ならまだしも、男なんかにうつつを抜かして店を休むなんて」
 まるで何一つ変わらない会話。
 そうだ、だって何一つ変わってねぇんだから。
「女か男か、なんて大した問題じゃねぇよ」
 俺はそう言って、ミズノに唇を寄せる。
 本当はあの夏、俺はミズノを実家につれて帰るつもりだった。
 ミズノが行きたいと言っていたことはともかくとして、俺の生まれた街をミズノに見せてやりたかった。
 俺の家族をミズノに見せたかった。
 俺の実家がミズノの実家みたいに錯覚してくれたら、ミズノが一番幸せになるんじゃないかって思った。
 我ながら馬鹿な考えだ。
 だけどミズノだってそう錯覚してくれると信じていた。
 ミズノに、俺はあらゆる幸せをくれてやりたかった。
 だけどそんなの、まるでプロポーズじゃねぇの、なんて思った瞬間に、俺は怖くなってしまったんだ。
 だってまた、親は泣くだろうから。
「ちょっと待って、斉丸」
 ミズノの肩を強く抱き寄せて、汗臭い首筋に唇を這わせた俺から、ミズノが体を引く。そこをまた迫る。
 壁際まで強引に追い詰めて押し倒すと、
「斉丸、歌は?」
 約束、とミズノが睨みをきかせる。
 相変わらず凄みのねぇ顔だ。
「長くなるから後回し。一年分溜まってんのは会話だけじゃねぇんだよ」
 と、ミズノの服を引っぺがす。
「ちょっと待ってってば斉丸、好きだって言ってくれるんじゃなかったの?」
 薄っぺらいシャツを放り投げて、パンツのジッパーを引き下げる。
 がっついてるっていう自覚はある。それが何だってんだ。
「あぁ、好きだ好きだ大好きだ。それで? そっから先はアンタが決めるんだったな」
 そう言ってからミズノの顔を振り仰ぐと、完全にむくれている。
 仕方なく耳元まで唇を寄せて
「どうした、……次は?」
 耳朶を耳に含む。
 ああ、こんな味だったっけ。
「もっとちゃんと言って」
 俺の首に腕を回して、ミズノは目蓋を閉じた。
「……好きだ」 
 ああ、そうだ。
 俺はやっと、自覚しているのかもしれない。
「もっと、言って」
 舐め取った耳朶を甘く噛むと、ミズノの躰がピクン、と震えた。
「好きだ」
 耳を舌の腹で大きく舐め上げると、ミズノの足が絡まってきた。
「もっと」
「好きだ。……好きだよ」
 それは、言っている内にどんどん夢中になる言葉だ。
 何とも思ってないなら嘘でも冗談でも言えるのに、本気だからうかつに言葉に出来ない。
 本気だから、言うたびに取り返しがつかなくなる言葉。
「斉丸……っ、もっと、もっと言って……っ」
 一年ぶりに触れるミズノの肌を、掌で指先で、唇で舌で全身くまなく感じ取る。
「斉丸、俺の名前、……っ呼んで・透、透って……呼んで欲しい」
 どんなに表面をなぞっても、俺の欲求は際限がなかった。
 ミズノの肌を食い破ってしまうんじゃないかという衝動に追われながら、俺はミズノの体を貫く。
 久しぶりに繋がった躰はミズノに苦痛なんじゃないかと不安に駆られたが、ミズノはそれでも、汗ばんだ四肢を強張らせながら、俺を受け入れた。
 アンタが望むことなら何だってしてやる。
 今までで一番アンタを愛してやる。
 アンタが二度と俺から離れられないように、この肉体に俺を刻み込んでやる。
「透、……透、アンタが好きだ。好きだよ」
 アンタが望むなら、本当は何度だって囁いていいんだ。
 ただ俺が少し、臆病だっただけなんだ。
 好きだ、と言うたびに、アンタから離れられなくなるような気がして。
 アンタに、溺れていくような気がして。
「ねぇ斉丸……さいま、る……ぅッ……! 愛してるって、……俺のこと、愛してるって言って、もうどこにも行っちゃ嫌だって、……そう言って……ッ!」
 深く深く穿ち入れた俺のものをぎゅうと締め上げて、ミズノは濡れた唇に今にも昇天しそうな艶かしい声をあげた。
 もうそんなに話さなくていいと、これから何度だって抱いてやるし、アンタの願いだって全部聞いてやるからと、宥めてやりたいけど、俺もどうしようもない興奮に飲まれて、何も言えない。
 あぁ、あぁ、と何度も肯いて、愛してるから、透、愛してるからもうどこにも行くな、ずっと俺のそばにいろと、繰り返し繰り返し、囁く。
 もういいんだ。
 もう、アンタに溺れていくのは怖くない。
 俺をアンタの居場所にするために、俺は、アンタに溺れても構わないんだ。


「まったく」
 一年間掃除してなかったんじゃないの? とミズノは出すもん出してすっきりするなりいきなり怒り始めた。
 あぁハイハイ。早速うるせぇヤツだ。
 さっきまでその汚ねぇベッドでよがり狂ってたのはどこのどいつだっつーの。
 おかげさまで他の女連れ込まなかったもんでね、なんて言ったら多少はおとなしくなるんだろうか。
「……ねぇ斉丸」
 今は仕方ないと諦めたのか、またベッドの上に身を伏せたミズノは、少し考え込んでから言った。
「ここ、もう引き上げて、俺が今借りてるマンションで一緒に住もう」
 相変わらずの狭いベッドの中で、ミズノは身を摺り寄せてくる。
 いくらなんでもそこまでつめなくても平気だ、っつーくらい身をぴたりと寄せて。
 俺もその肩を更に抱き寄せちまってるんだが。
「ああ、……別にどーでもいいけど、何でだ?」
 ミズノがここに帰って来れた今となっては、このアパートにこだわる理由は何もないんだ。
「だってまだ、向こうのは一年しか借りてないんだもん。解約とか、大変だから」
 ああそうですか。
 別にどーだっていい。通勤時間なんて何とでもなる。
「それとも、しばらく別々に暮らす?」
 意外にも、ミズノは何てことないような顔をしてさらりと言った。
 俺は一瞬、言葉を失った。
 それくらい別にどうもしないことで、四六時中ベタベタしていたい馬鹿な恋人同士でもねぇのに、俺は何とも答えられなかった。
「嘘」
 ミズノは笑って言いながら、俺の首に両腕を回して唇を重ねた。
「こういうこと、出来なくなっちゃうもん」
 俺は不覚にも、そう言われて――少し安心した。
「その代わり、斉丸」
 何の代わりだよ、と思いつつ、俺は間近で笑っているミズノの顔を見詰めた。
「斉丸は一日に一回、必ず俺に愛してる、と言うこと」
 何でだよ。
 俺はちょっとムッとしたけど、
「そりゃ、一日一回ヤっていいってことか?」
 と茶化した。
 ミズノは唇を尖らせて怒ったものの、俺的にはちょっと失敗だったな。
 そんなん、俺もヤりてーってことじゃねぇか。
 ミズノが気がついてないようならまぁ、いいけどよ。
「いいよ、別に。斉丸なら」
 ミズノが視線を伏せる。
 何で視線を逸らすんだ、俺のこと見てろ、と言いかけて、俺は慌てて飲み込んだ。
 溺れるってこーゆーことか、クソ。
「俺、斉丸のこと好きだから、いいよ。……したいよ」
 睫毛を伏せたまま、ミズノは俺のことなんか知ってか知らずか、いっちょまえに殺し文句吐きやがる。
 あぁ、ハイハイ。負けてやるよ。
「その代わりアンタは一生、一日に一回、俺に幸せかそうじゃないかを答えろ」
 ミズノが驚いたように、顔を上げた。
 紅潮させたままのやらしい顔で俺の顔を呆然と見詰める。
「何だ?」
 それからやがてゆっくりと、泣くのかと思うくらい顔を歪めて笑って
「馬鹿、そんなの答えなきゃならないなんて、幸せに決まってんじゃん」
 そう、答えた。