knocking on your door・Ⅲ(7)
季節が変わっていた。
俺が実家から持ち帰ってきたギターは一週間に二、三回、気が向いた時に音を鳴らしているものの、ずいぶんと指が動かなくなっていた。
久しぶりに顔を出した実家では何も変わってなくて、兄貴は地元の医者になっていて、親父はリストラにあったとかで、定年のない漁師に転職していた。
おふくろも相変わらずうるさくて、正月も実家に変える羽目になった。
突然帰省した夏と違って正月には、数少ないと思っていた俺の友人たちも一堂に会して飲み会となった。
俺って結構友達いたんだななんてうっかり口を滑らせようものなら両サイドから散々頭をはたかれた。
久しぶりに会って、何で殴られなきゃいけねんだ。
驚いたことに、俺がかつて遊び倒していた女どもはことごとく結婚してやがって、織野田と不倫だけは絶対しない、なんてほざく。
当たり前だ、誰が今更てめえみたいなババア抱く気になんだよ、と吐き捨てると、やっぱり返ってくるのは、あんた変わってないわね、だった。
そんなに変わってないことがあるか。いったい何年会ってねぇと思うんだ。
それでも奴らは呆れた顔で、織野田だけは何年経ってたって、何があったって変わんねぇよ、と口々に言う。
何があったって、誰と出会ったって?
「だってお前、どんなヤツと知り合ったって、相手をてめえのペースに引きずり込んじまうだろ」
それを拒まない、お前ンとこが嫌じゃないって感じるヤツだけが、お前の好き嫌いにかかわらず、お前のそばに残るんだよ、と奴らは言った。
「だから織野田はいつまでも変わらなくて、織野田に惚れちまった奴は何十年ぶりに会ったとしても安心するし、また会いたくなるんだ」
チクショーむかつくぜ、なんてボコられながら、俺は胸の中で首を振っていた。
そんな事があるか。
だってあいつはいなくなっちまったじゃねぇか。
あのまま、帰ってこねぇじゃねぇか。
一年が経とうとしていた。
弁当を作ってくれるヤツがいなくなっちまったもんだから、バイトの昼にはホカ弁を買う。
瑞貴、とかいう女のいる喫茶店は、あいつがいなくなってから一度しか行ってない。
透くん辞めちゃったわ、それしか聞きだすことは出来なかった。
女が一ヶ月も実家に帰っていてから、九月になるとまた店はいつも通りに開いたものの、その後三ヶ月で急に閉店してしまった。
きっとあの女の事情でそうなったんだろう。
一ヶ月も実家に帰るなんてのぁタダゴトじゃない。
ただ、じゃああいつが帰ってきた時あいつの働くところがなくなる、漠然と、そう考えた。
帰ってくるはずがないのに、あいつにあの店はとてもよく似合っていたから、あいつもあの店で働いているのが幸せそうだったから、女が店を去ってからも、内装が取り壊されてしまうまで俺は何度か、誰もいない店内を覗き込んだ。
あいつが、何も変わってない顔をして働いているような気がして。
うちの店のチェーン店がまた増えるとかで、ワカが俺に店長になることを勧めてきた。
悪い話じゃないから詳しい話を聞いたら、電車で一時間も先の駅前に出来るらしい。
俺は今のアパートを離れる気はないからと一度断った。
しかしワカはしきりに俺を店長に、と勧めて、結局ワカが新しい店に行くことになった。
どうしても俺はこのクソ汚ねぇアパートを離れたくなかった。
やがて、バイトの女子大生と仲良くなった。
男に媚びることなく負けん気が強く、女らしさも多少は心得ているそのマユとかいう女は俺を好きだと言った。
断る理由もなくて俺はその女とキスをしたし、女が出かけるのにも付き合った。
高木が、付き合ってるんですか? と訊いてきたが、俺は答えなかった。
高木は、俺によく会いに来ていたあいつのことをまだ覚えているだろうか。
マユがいくら俺の家に行きたいと言っても、俺はその狭いアパートに女を入れなかった。
やがて俺が硬派だと言われるようになって――イナカの友達、特に女どもが聞いたら腹抱えて爆笑するだろうな――マユは一人で大盛り上がりして泣きながら、バイトを辞めて行った。
何でかしらねぇが俺が振られたことになってるらしく、成人した高木に誘われるまま飲みに行き、その先で知り合った女と遊んだこともあったが、長くは続かなかった。
兄貴が仕事の都合で東京に出てきて、一緒に飲んだ。
また夏がきて、終わろうとしていた。
気がつくともう一年が経っている。
兄貴はこっちの大学病院の娘さんを嫁にして、地元で開業医をやる、と言った。
「あぁそう」
両親はさぞかし手を叩いて大喜びすることだろう。
「だから、お前は」
何でだかそんなに嬉しそうな顔をしない兄貴は、そう言って静かに言葉を繋いだ。
「お前は好きなことをやればいい」
充分やってるさ、と答えて、俺は日本酒を飲み干した。
充分すぎるくらいに、俺は好き放題やらせてもらってる。昔も、今も。
「兄貴のおかげでな」
俺が言うと、兄貴は実年齢以上に老けたような顔で苦笑した。
「……ああ、そうだ、でも」
俺は空になったグラスの底に視線を落としながら、呟いた。
兄貴の耳に届いていなくても構わないと思った。
「俺は、結婚はしないかもしれない」
兄貴は鯛の刺身の最後の一切れを口に運んだ。
新潟に比べたら鯛の味が全然しない、なんて文句を言っていたわりに、ぺろりと平らげる。
「そうか」
溜息のような声で兄貴が答える。
「親父たちは、別に何も言わねぇかな?」
俯いたまま俺が尋ねると、兄貴は俺のグラスに酒を注ぎながら
「さぁな……お前の口からちゃんと言った方がいいとは思うけど」
独特の低い声で言って、それから笑った。
「まぁ、女じゃあるまいし」
久しぶりに、兄貴の晴れた笑顔を見たような気がした。
昔は兄貴も俺と張り合えるくらい無責任で能天気で、馬鹿ばっかりやってたんだ。
今じゃすっかり、そんな風には見えないが。
「結婚なんてなんてことないぜ。……ま、俺はするけど、してもしなくても大して変わらないよ。俺が結婚する方の人生を行くから、お前はしなくても構わないし、したくなったらすりゃいいさ」
俺は兄貴の手から酒瓶を受け取って兄貴のグラスに注ぎ返した。
昔から、俺は兄貴と別の道を選ぶようにしてきた。
兄貴が勉強するなら、俺は勉強をしない。兄貴が運動を苦手とするなら、俺は夜が更けるまで表を走り回った。
そうでもしなければ、俺は兄貴に勝てないと思っていた。同じ土俵じゃ、勝てっこない。
だけどそれは、兄貴に甘えていただけなのかもしれない。今となっては。
「そう言えばお前、歌はやってるのか?」
俺はさっぱり、というように肩を竦めて見せたが、兄貴は真顔で
「そうか……、結構いいセンいってたと思うけどな」
そう言って、日本酒を啜った。
「また、歌えよ」
そう言えば、兄貴も昔歌をうたっていた。
だけどやがて医大に入るための勉強に専念するようになって、兄貴のギターは俺のものになった。
俺があの時、上京する理由に歌を挙げたのは、兄貴に対する見せつけのつもりだったのかもしれない。
「歌えよ」
まるで俺が兄貴の夢だったかのように、兄貴はくり返した。