knocking on your door・Ⅲ(6)
ミズノのボーナスが出た。2.5カ月分。
こんなに払って大丈夫なのか、あの店。
とはさすがに言い出せなかったがミズノも少し驚いていたくらいだから、やっぱりやべえんじゃねぇの?
「ベッド買おうかなぁ……」
ぽつり、とミズノが言った。
「無理すんなよ」
せっかく出たボーナスを一気に使っちまうことはない。
「でも今までも実は結構貯めてるんだよ。通帳みる?」
自炊頑張ってるから、と本当に通帳を持ち出してくるミズノを無視して
「金は持ってるに越したことねぇよ」
と突き放す。
サトシと暮らしてた頃は全然金持たせてもらってなかったみたいだしな、金は貯めとけ。
この先、何があるかも判らないんだから。
「……、」
ミズノが通帳を持ったまま言葉を失くしているのを見て、どうしたんだと顔を覗き込む。
するとミズノは俺の首っ玉に飛びついてきた。
「実は斉丸、ベッド買いたくないんでしょう?」
ふはははーとわざとらしい笑い声を上げてミズノがふざける。
何だ、そりゃあ。
「狭いベッドのほうがくっついていられるもん」
そう言って、唇を俺の頬に押し付けてくる。
「そりゃアンタだけだろ」
寝言は寝て言え、と言葉を続けるが、めでたいミズノの頭は暴走気味で、照れなくってもいいんだぜっなんつって思い切り俺に体重を預けてきやがる。
「言ってろ」
俺はミズノの腕を引くと、のしかかられた体重を借りてミズノを床に押し倒した。
「……ああ、そうだ」
ミズノの首筋を噛みながらシャツの裾をたくし上げている途中で、俺はふと思い出した。
「俺、来週から実家行くから」
顔を上げてミズノに告げると、ミズノは服を脱がそうとする俺の手を握って止めた。
「どのくらい?」
ミズノが尋ねる。
心細い、と囁くような声。
実際にミズノがそんなことを言ったことはないのに。
「どれくらいいなくなって欲しい。一年か、十年か?」
それともこの先一生か。
俺の掌を引き上げて、そこに柔らかい頬を押し当てたミズノが睫毛を伏せる。
赤く薄い唇がゆっくりと開いた。
「一分だって、嫌だ」
「バイトに行ってる間は?」
ミズノの拘束から手を引いて、俺は冷たく答えた。
「斉丸、俺が好き?」
またそれか。
俺はミズノの上に跨った身体を起こした。
ミズノの通帳がテーブルの上に乗っかっていた。
「水野サン」
俺が押し倒したまま、身を起こそうとしないミズノを見下ろす。
「俺を殺してもいいぜ」
あんたがそれで幸せでいられるなら。
俺が生きている限り、アンタが幸せを信じられないなら、それしかない。
ミズノが目蓋をゆっくり上げて、虚空を見つめた。何もない天井を。
それは不思議と強い光をたたえていて、何の感情も読み取れない。
そうしている人形のように美しい。
「……どうして?」
俺は、後ろで束ねていた髪を解いた。
俺のことを見ていないミズノから顔を隠そうとしたつもりだったが、もしかしたらそれは俺がミズノから目を逸らしただけなのかもしれない。
「俺はアンタを幸せに出来ない」
ミズノがゆっくりと身を起こした。
どんな風に殺されたって構わない。
俺が死んだら誰が悲しむだろう、となけなしのリストを心の中で数える。
「俺を、不幸にする?」
ミズノが空ろな声で呟いた。
サイマルモ?
サイマルモ、オレヲフコウニスルノ?
ミズノの声が胸に刺さるようだった。
ミズノはそんなこと、言ってないのに。
ミズノを幸せに出来ないと言っているのは俺の方なのに。
「なぁ、水野サン。アンタは間違ってる」
無性に煙草を吸いたくなったが、今日のバイトの帰り道で最後の一本を吸いきってしまったことに気がついた。
この家のどこかに予備があるのかも知れないが、俺には判らない。
ミズノは知っているんだろう。
それに、立ち上がるのも面倒だった。
体が重い。
「幸せだの、不幸だの、優しさだの、強さだの」
愛だの恋だの、
「そういうのは言葉じゃねぇんだよ」
俺は、東京に出てきてからいつの間にか長くなっていた髪をかきあげた。
「判ってるよ、そんなこと。だから俺は、斉丸が、――斉丸といると、」
床を見つめていた俺の視界の端に、雫が落ちるのが見えた。
俺の心を重くするもの。
ミズノの涙。
「もうどうだっていいんだよ!」
俺はその怪物の影を振り払うように怒鳴った。
「もう何もかも面倒くせぇんだ」
もう今更夢は見れねぇし、親のあの涙は取り消せねぇ。
俺がどうしたらミズノを安心させることが出来るのか、そんなこと、俺には考えもつかねぇ。
俺に何も出来ないってことを、アンタは判ってねぇ。
「……それで?」
ミズノの声が、低く返ってきた。
小さく震えているように聞こえた。
「それで、斉丸はどうするの」
俺は、ゆっくりと視線を上げてミズノの顔を見た。
ミズノは、泣いてなんていなかった。
「俺が嫌になったんならそう言えばいいよ。俺が男なのが困るなら、そう言えばいい。大丈夫だよ、俺はそんなことくらいじゃ傷ついたりしないから」
ミズノは弱々しく笑って、俺に手を差し出した。
「俺はもっと前から判ってたよ。だって斉丸には普通に家族がいて、俺が好きだってこともよく判ってなくて、当然、覚悟もなくて」
ミズノの両手が俺の頬を包み込んで、抱き寄せる。
「だからいつか斉丸は、男である俺のところにはいられなくなるって、俺はずっと判ってたよ。……ごめんね、俺もこういうことに慣れてなくて、斉丸を、困らせたね」
ミズノの腕の中に頭を預けて、俺はミズノの声を聞いていた。
いつも聞く声よりもずっと深く響く、染み入るような声だ。
心ってのが、震えるような。
「馬鹿だね、そんなことで泣かなくったっていいのに」
泣いていたのは、俺だ。
子供みたいに、ミズノの腕の中で、それを止める術を知らない。
「斉丸、俺を好き?」
ミズノの、俺を抱く腕に力が篭った。
「斉丸が俺を嫌いになったんじゃないとしても、斉丸と俺は違うから、いつか離れてしまう。理由なんてなく、永遠じゃないんだよ」
だからミズノは俺と死のうとした。
それは、判っているようで判ってなかった。
「だけど斉丸はあの時、死ぬのは許さないって言ってくれたでしょう。何も判ってないな、この人は、って思ったけど、それでも――それが、嬉しかったよ」
ミズノはそう言って、笑った。
染み込んでくる「気持ち」。
この気持ちだけですべてを成就させられたらどんなにいいか、きっと今まで誰もが考えたことのある感情なのかもしれないけど、俺は今更のように痛感していた。
だけどやっぱり今まで何人もの恋人たちが苦しんできたのと同じように、そんなの、叶わねぇに決まってるんだ。
夢は、夢だ。
ミズノの腕がゆっくりと、離れた。
俺を解放するように。
「いいんだよ。俺は死ななくても、斉丸を殺さなくても、いいんだ。……斉丸を苦しめて、ごめんね」
ミズノはそこまで言って、言葉を切った。
それくらいの間そうしていたか、何も言わずに俺のことをじっと見つめて言葉を発しようとしなかった。
「斉丸が苦しんでたのは、……知ってたよ」
やがて呟くように言ったミズノは、ずっと様子が可笑しかったもん、と苦笑を浮かべながら付け足して、立ち上がった。
どこに、と言いかけた俺の唇を、指先で制する。
そのまま、何も言わないで