knocking on your door・Ⅲ(5)

「はい、斉丸お弁当」
 ミズノは今日休みだそうで、弁当初日はずいぶんと豪勢な出来になった。
 何でも朝十時に開いたばっかの店に飛び込んで買ってきてくれた弁当箱なのだそうだ。
 ご苦労なこった。
「ん」
 その辺置いとけ、と春巻きを頬張りながら言うと
「忘れないでよ」
 と、ミズノは俺の煙草や財布と一緒に弁当を置いた。賢い。そーやっときゃ忘れっこねぇな。
「で?」
 ふう、と大袈裟な息を吐きながらミズノはちらりと俺を見る。
「あ?」
 俺が訊き返すと、ミズノは俺の肩に手をかけてにんまりと笑みを浮かべる。
「斉丸のわがままを聞いてあげたお礼は?」
 勝ち誇ったような顔で何言ってやがる。
「お話してやろうか」
「何それ、新しいジョーク?」
 この間からそればっかり、とミズノは可笑しそうに笑って目を伏せる。
 それはまるで暗黙の了解のようで、俺はミズノに口付けた。春巻きで多少脂っこい唇で。
「俺の」
 俺は烏龍茶で口の中を洗い流しながら呟いた。
「昔見てた、夢を」
「え?」
 俺の手から、ミズノが烏龍茶を奪う。一口、口に含んで俺の唇に流し込む。温ぃよ。
「夢」
 俺は昔、自分に何が出来るだろうかと真剣に考えていた。
 一生をかけてもやりたいと思うこと。一生やっていても飽きないこと。
 それは何だろう、と。
 適当にくっついたり離れたりする女も見えなくなるようなもの。
 つまり、夢中になれるもの。
「斉丸、何になりたかったの?」
 ミズノは俺から離れて、テーブルを挟んで向かい側に座った。
「映画監督?」
 斉丸映画好きだもんね、とミズノは興味津々で言うが、俺は首を振った。
「うたうたい」
 茶碗を空にしながら俺が答えると、ミズノは目を瞬かせてから、静止した。
 何だ、その反応は。
「……斉丸、歌なんてうたうの?」
 呆然としたような口ぶり。
 そりゃ、映画の方が意外性はなかったか。でもありゃ駄目だ。俺なんかがやってける世界だと思えなかった。
 ――まぁ音楽だって、結局やってけるわけなかったんだが。
「ああ、ギターは実家に置いてきたけどな」
「ギター弾くの!?」
 ミズノが素っ頓狂な声を上げた。
 つくづく失礼なヤツだ。
 俺が眉を潜めて見せると、ミズノは取ってつけたように笑ってごまかした。
「でも、すごいね。俺斉丸の歌、聴いてみたい」
 頬杖をついて、ミズノはまんざら嘘でも冷やかしでもなさそうに言った。
 俺は席を立って茶碗を流し台に片付けた。ゴムで髪を簡単に束ねて、バイトの時間だ。
「ね、斉丸いつ実家に帰るの?」
 ジッカ、という言葉にまた脳裏を過ぎる、心の染み。
 母親の涙。
 あの時飛び出したきり、実家に顔を出してない。連絡は年に一回かそれくらい、取っているけど。
 だけど今俺の気持ちが重いのは別に、あの涙を引きずってるってわけでもないはずだ。
「ギター持って帰ってきてよ。うた、聴かせて」
 玄関に向かう俺の背中を追ってきて、ミズノは無邪気な声で言う。
 俺は玄関でミズノを振り返った。
「水野サン」
 手を伸ばすと、きょとんとしながらミズノは俺のそばに近付いてくる。
 それをぐいと引き寄せてキスをした。
「どうしたの? 斉丸」
 新婚さんみたいじゃーんと笑いながら、俺におとなしく身を預けるミズノが、俺の背に腕を回してきた。
 染み込んでくる「気持ち」。
 きっとミズノの俺を好きだ、という気持ちが入り込んできているんだろう。
 俺はもう歌えない。
 歌を歌うんだなんつって東京に出てきたくせに、ギターを置いてきてるんだ。
 俺なんて、その程度の男だ。
 だからアンタを幸せにすることは出来ない。
 この心の染みを、なくしてくれ。
 俺はいつかアンタを泣かせてしまう。
 俺は誰のことも幸せになんて出来ない。
 自分の親のことすら。


「ワカ」
 昼休憩、と言われて缶コーヒーを買ってきた帰り、カウンターに突っ立っている店長のワカに声を掛けた。
「んー?」
 売上票を手にしたまま、ワカは適当に返事をした。
「俺実家に顔出してきたいんだけど、休みくれ」
 ワカは、あー、と唸るように言って、カレンダーを捲った。
「盆がいいか」
「いや、いつでもいい」
 盆なんて忙しい時期に休もうとは思ってねぇから、と付け足すとワカは「判った」と短く答えた。
「あ、でも出来れば八月中がいい」
 脳裏に過ぎったミズノの能天気な顔を思い出して俺が口を滑らせると、
「うそつき……っ! 俺をだましたのね!」
 と、ワカは迫真の演技で言った。
「ごめんよハニー。俺を許してくれ」
 俺も真顔で返して、ついでに投げキッスも飛ばしつつ休憩室に向かった。
 そばで聞いていたバイトの高木が大笑いしていた。