knocking on your door・Ⅲ(4)
「……なぁ」
俺が風呂から上がると、ミズノはベッドに腹這いになって文庫本を読んでいた。
「お茶飲む?」
俺が話しかけると、あっさりと紙面から顔を上げたミズノがベッドから降りた。
「いいから寝てろよ」
それを手の甲で追いやるように制して、俺は首にかけたタオルで髪の毛から滴る水を拭った。
「明日から、弁当でもいいぞ」
玄関に接したリビングにある小さなテーブルに着くと、結局ベッドから降りてきてしまったミズノが歩み寄ってきて俺のタオルを取り上げ、髪を拭いてくれ始めた。
「何で?」
俺の背後に立っているミズノの体に俺が背中を預けると、ミズノは機嫌がよろしくなったようで、声を出して笑った。
「いや、……俺あそこの料金払ってねぇしよ」
食いに行くのも正直面倒だし。
弁当なら職場の休憩室で食える。そのまま一服もし放題。
「俺のコーヒー飲めなくなるのに?」
ミズノは俺の顔を覗き込んで言い、わざとらしく口先を尖らせて見せた。
「あぁ、ハイハイ。水筒にでも詰めてくだサイ」
言ってから、本当にやりそうで怖い、と思ったがミズノは笑ってすませてくれそうだった。
「うーん、でも一週間に一度くらい食べにきてよ。そのほうが瑞貴さんも喜ぶし」
何だそりゃ。
「それに、夜何時間かしか話せなくなると、寂しい」
俺の反応を窺うように恐る恐る言ってミズノは、俺の髪を拭くのを止めた。
「ああ、じゃあ店に出ない日は食いに行きゃいいんだろ」
週に二回取れるオフの日の内、どちらか一方はミズノも休みにしているようだが。
まったく何をそうベタベタしたがるのかね。
「ありがと」
嬉しそうに笑って言って、ミズノは俺の頬に唇を押し付けた。
「あ、もうこんな時間だ」
ミズノは時計を見るなりおざなりなキスを止めて俺から離れた。
「明日の朝ごはん簡単でいい?」
簡単、っつってもミズノの作る飯は簡単のレベルが違う。
飯を作る担当はミズノと決めてからだが、ミズノは飯を作るのに命をかけてるんじゃねぇかと思うほどだ。
バイト先の影響もあるんだろうけどな。
「さぁ寝るぞ、寝るぞ」
言いながらミズノは、俺の脇の下に手を入れて抱き上げる振りをする。
まったく元気だな、この男は。
電気を消してベッドにもぐりこむと、控えめにミズノが俺の背に手を宛ててきた。
仕方なくミズノに向き直るように寝返りを打ち、その細い肩を抱いてやる。
夜の闇の中で、ミズノが安堵したように深い息を吐いた。
こいつは今でも、明かりを消した後のベッドの中では時に体を強張らせる。
身体に刻み込まれた過去の記憶がそうさせるんだろうが、俺が少し抱いてやるとそれはすぐに落ち着くようになった。
瞼を閉じているミズノの目元にキスを落とした。
驚いたように目を開いてから、ミズノは笑って、唇を重ねる。
伸ばした俺の腕に頭を乗せて、ミズノは安心した表情で眠りに落ちた。
俺は、こいつが自分の過去に苦しんでいる間、好きな男に裏切られて肉体を他人に売り渡している間、何を考えて何をしていたんだろう。
昼間考えていたことを思い出す。
重苦しい、心の染み。
高校を卒業した俺は大学なんてものに行く気もなければノーミソも足りなかった。
兄貴が医大生で、家には金もなかったし、親戚や両親の期待を一身に背負っていた兄貴と違って俺は気が楽で、いい気分だった。
一度は地元で就職したものの、上司をぶん殴って試用期間を終えないうちに退社。親の金で飯を食いながら遊んで暮らし、周りにはデキる兄に対するコンプレックスで自棄になってるんだとでも思われていたらしく、それも都合が良かった。
親に口うるさく言われれば土木のバイトやら木材関係の会社で期間限定の雇われをやって、気がつくと何年も経っていた。
やがて、ちょっと手を出した女に子供ができて、双方の両親を呼んだ話し合いの場が持たれた。
二人きりで話している間は「お金さえ出してくれれば堕ろしちゃうし、その方がいーよ」なんて気楽に言ってた女が、その場に座るなりぽろっと涙なんか零しやがる。
俺一人悪者かよ。
中出ししてイイって言われたら出すだろーが普通。女の安全日なんか知ったこっちゃねーんだよ、……とはさすがに女の親の前では言えず、呆然となっていた矢先、母親が鼻を啜った。
驚いて顔を見ると、伏せた顔から涙の雫が一粒落ちた。
初めて見たおふくろの涙。
その瞬間、ああ、この人だってただの人間じゃねぇか、と今更――本当に今更、それまで俺が好き勝手やってきたことがこの人に負担をかけてきたんだって、いきなり気がついた。
呆れたり怒ったり、口うるさく言われるのが普通だと思ってきたけど、それは俺が許されてきたわけじゃないんだ、って。
そう、俺はあの時、上京しようと決意したんだ。
自分の将来を考えた。
それは夢っていうようなシロモノだったけど、大それた野望でしかなかったけど、今よりずっと真剣に人生ってもんを考えた。
結局産む気のなかった女とのコトを片付けるなり、俺は突然真剣に語りだした俺にぽかんとしてしまった両親を説き伏せて、東京に出てきた。
そのくせ土木のバイトしながら自分をまた見失って、今に至るんだが。
俺はどこにいても何をしようと決意したところで、変われなかった。
他人は誰も俺に期待しねぇ。
それは気が楽だった。
だけど、自分自身すら俺に何の期待もできない。
失望してる。
「……ん……」
俺の腕の中で、ミズノが身じろいだ。
悪いが、俺はアンタに何もしてやれねぇ。
俺はてめえが生きてるのがやっと、ってなくらい虫けら以下のバカで、俺の約束したことなんざ守れるとは思えねぇ。
アンタを幸せにしてやる、なんて無茶に決まってるんだ。
その場の勢い、その場のムードに飲まれただけのたわ言に過ぎない。
よくあることだ、セックスの最中に好きだってつい囁いたり、キスしちまうのと同じだ。
俺は締め付けられるような気持ちを塞ぐように瞼を閉じた。
――あ?
じゃあ、矛盾してるじゃねぇか。
俺はミズノを抱いてる最中に好きだの何だのとうっかり口にしたりしねぇぞ。
ああ、……駄目だ。やっぱわかんねぇ。
睡魔にさらわれていく。
一日の幕がゆっくりと落ちていく瞬間、俺は思い出していた。
昔、言い訳のためなのか本気で思っていたのか判らない、果たせなかった夢のことを。