knocking on your door・Ⅱ(6)

 気がつくと朝になっていた。
 俺を抱きしめていたのであろう斉丸は半分ベッドからずり落ちて、深い眠りの中にいる。
 俺はそっとベッドから這い出て、斉丸をベッドに押し込むように戻してやる。
 ぐいぐい、と肩を押しても、ちっとも目を覚まさない。
 まったくもう。
 少しくらい気がついて、お早うの一言でも言ったらどうなんだよ。
 昨夜は朝メシなんて無理して作らなくてもいいなんていってたくせにさ。
 俺は暢気な寝息を立てている斉丸の鼻の頭にキスを一つ落とした。
「……んー、……」
 顔を背け、蚊でも止まったかのように顔をごしごしと擦りながら、斉丸は寝返りを打ってしまった。
 俺は少し腹を立てて、斉丸の背中に歯を剥き出して威嚇して見せてからベッドを離れ、昨日貰ってきたビーフシチューを冷蔵庫から出す。
 ああ、でも、俺は今、一番幸せだ。
 本音を言えばこの幸せを疑わないことなんてなくもない。
 こんな風に幸せだったことなんて今までなかったから。
 なのに俺をこんな風に落ち着かせているのはきっと、俺が過去にけじめをつけてこれたってことに対する自信。それと、斉丸の俺に対する不信感、なのかな。
 ――サトシの、ところか?
 血の繋がった父親に会いに行こうかどうしようか迷っていた俺が、耐え切れずに掛けてしまった電話で、斉丸は言った。
 その声を俺はきっと一生、忘れない。
 彼は俺のことなんて信じようとしなかった。
 俺のことなんて理解すること自体を拒否した。
 それなのに、それでも、好きだと言う。
 人を信頼するという独りよがり。
 人を理解するという幻想。
 そんなことに疲れきった俺を、彼は怒鳴り飛ばしてくれた。
 俺は彼の前でだけ、笑っていても、いいんだ。
「――……おい」
 低い低い、呻き声のような低音が響いてきて、俺は目を瞬かせた。
「斉丸?!どうしたの、お早う。まだ七時半だよ」
 その声が斉丸のものだと理解できるまで数秒を要した。
 慌ててベッドに駆け寄る。今日は嵐でも起こるんだろうか。
「……朝っぱらからうるせぇ男だな……死んだ人間が生き返ったわけでもねぇのに……」
 そりゃ、そうだけど。
「おい、水野サン」
 何で未だに『サン』付けなんだろう。
 俺たちっていわゆる一つの、恋人なんじゃないのかな。
 それとも、そうだからこそ、斉丸は恥ずかしがってこの呼び方でしか呼べないのかな。
「……ビーフシチュー、焦げてねぇか」
「あ!」
 尻尾を踏まれた猫のように飛び上がって、コンロに向かう。
 鍋の蓋を開けるまでもなく、その中は墨と化していた。
「あ、……あぁ……」
 今日から一週間は鍋を磨き続けれければならない。
 あと、今日の朝食。ビーフシチューとトーストでいいや、と思っていたのに。
 フルーツサラダなら作れるけど、朝からそんなヘルシーな食事じゃ俺は良くても斉丸の元気が出ない。せめて肉がないと。
「ナベ買うか」
 ヨレヨレのTシャツを半分たくし上げて胸板を掻きながら、大きい図体でのっしのっしと斉丸が起きてきた。
「あ、……起きちゃったの?」
「なんだ、いけねぇのか? 俺が起きてちゃマズいことでもあんのか」
 このひねくれ者。
 俺が軽くにらみつけてやると、はっと斉丸は鼻で笑って、鍋に目を向けた。
「……いいよ、磨けば使えるもん」
 面倒くさいけど、と俺が付け加えると斉丸は伸ばしっぱなしの髪を手櫛で梳かしながら、もう一方の手を鍋に伸ばした。
「まだ熱いよ、危ない」
 Tシャツの裾を引いて注意を促すと、斉丸は素直に手を引っ込める。
「ビンボーくせぇこと言ってねぇで、買えよ」
 俺はリビング――といってもワンルームだけど――に戻って、ブラシを持ってくると斉丸の髪を梳かしてやろうとした。
 うざってぇ、と斉丸はどっかの野良犬のように嫌がって見せたけど、みっともない。
「いいよ、こういうことに金を使わないで貯めて、まずダブルベッドを買おう」
 セミダブル、と言いたいところだけど、斉丸は身長が大きいから、今だってパイプベッドから足がはみ出している。
「まずって何だ、次に、もあんのか」
 キッチンの椅子を引いて、斉丸が腰を下ろした。
 髪にブラシを入れやすくなった。もう一度リビングに戻って斉丸愛用のヘアゴムを持ってくる。
「次に、は大きい浴槽のついてるマンション」
 きっちり髪をまとめてあげると、ブラシを持ったままの手を斉丸に引かれた。
 背後から抱きつくような形になって、それでも斉丸は俺の行動を訂正しなかった。
 珍しいじゃん、朝からくっついてもいいなんてさ。
「あんたが一緒に入りたがらなければイイんだろ」
 両腕を斉丸の胸に回して、キューっときつく抱きついてから、少し離れて首筋にキスをする。
「もっと言えば、一緒に住まなきゃデカいベッドを買う必要もねぇ」
 いつもの調子で斉丸は笑いながら言う。
 こんな幸せな時間は、いつまで続けることができるんだろう。
 そんなことを思いもしないのが斉丸で、幸せは永遠ではないと知っているのが俺。
 その違いだけが、いつも俺を悲しくさせる。
 斉丸、俺はいつまでもここにはいない。
 それは斉丸がいつまでも俺のことを好きでいてくれることはないってことだよ。
 早くそれに、気づいて欲しい。
 斉丸なら判るはずなのに。
 永遠なんてただの夢なんだ、と。
 だからその日まで、
 斉丸が俺のことを好きじゃなくなってしまう日まで、俺を好きでいて欲しい。
「……おい?」
 黙りこんでしまった俺に、斉丸が首を捻って振り返った。
「あんた、やっぱり眠いんじゃねぇか」
 顔を覗き込もうとする斉丸に、俺は抱きついた腕の力を強めた。
「おい」
 お前が俺を悲しくさせたんじゃないか、この野郎。
 そう言ってやってもいいけど、それは出てこない。
 そこまでは素直になれない。
 そんなに幸せに育ってきてはいない。
 いくら斉丸が不機嫌な振りをして見せてくれても、これだけは言えないよ。
「……斉丸」
 俺がこんな声で話を切り出した時には、いくら待っても斉丸の相槌は返ってこない。
 俺が、話したくはないのに聞いて欲しいことを話す時だって、判ってくれてるんだ。
「斉丸にとって、愛って何」
 反応は判りきっていた。
 ははは、と軽快に笑い飛ばす斉丸。
 哲学的だなぁ、なんて言って。はずかしー、と大袈裟に肩を抱く振りもして。
 でもちゃんと答えてくれる。
「さぁな」
 それに続く言葉も判ってる。
 ――俺は人を「愛」したことなんかねぇから判らねぇな。
「セックスって、どんな意味」
 斉丸が、俺の腕の中で言葉を失った。
 俺がそのことで深い傷を負っているのを知っているからだ。
 だけど斉丸は判ってない。
 知らないことは判っていなくて当然だけど。
 俺にとってサトシに強要された売春なんて大したことじゃなかった。
 それが根源ではなかった。
 斉丸はやがて、俺の沈黙をノックするように静かな声音で答えた。
「ただの欲望だ、俺にとっては」