knocking on your door・Ⅱ(5)
「たしか、あなたには」
三人の子供がいたはずだ。美人な正妻と。
俺は、ここに辿り着くまでの数年間で聞きかじった情報を思い出して眉を潜めた。
えぇ、と曖昧に肯いて、男は笑った。
「次男が――もう二年も前になるけれど、交通事故でね」
何か大切なものを失った「かのような」声と表情に、俺は同情の念を覚えた。
目の前にいる男が俺にとってどんな存在なのかも忘れて。
「君にこんな話をするのは失礼だね」
男は口元を押さえながら、申し訳なさそうに肩を落とした。
「別に……」
交通事故、そんな死に方もあるのだ。
俺には判らない。
俺の周りにあった死はいつも、人為的な影ばかり引きずったもので、例えばクスリ、例えば殺人、私刑。
そんな風に、車に突然命を奪われていくなんて、どういう感じなんだろう。
俺は同情する素振りにも似せて視線を伏せ、考え込んだ。
突然――そう、例えば、彼がいつものようにアルバイトに出かけて、もう二度と帰ってこない。
彼は車を誘導していただけなのに、そこに一台の余所見運転の車が突っ込んできて、死――……。
「……っ!」
気がつくと、俺の頬には冷たい汗が伝っていた。
有り得ないことではない。
彼が死んでしまうなんて考えたこともなかった。
クスリ、私刑、そんなものから遠くかけ離れている人間だからといって、あの人が死なないなんてことはないのだ。
「……君……?」
男が白いハンカチを差し出しながら、俺の顔を覗き込んだ。
心配そうに窺う視線。
「愛している者が死ぬっていうのは、どんなものですか」
俺がハンカチを受け取って例を言う代わりに尋ねると、男は無防備に目を瞬かせた。
「愛しているものなんでしょう、子供っていうのは」
俺もこの男の子供っていうことになるんだろうから、こんな質問は意地が悪すぎただろうか。
男は苦笑して、黙り込んでしまった。
「――俺はきっと、あなたを許さない」
俺は、黙り込んでしまった華奢な体をした老人に言った。
「いや、許さないも何もない。俺にとってあなたは、存在しない人間だ」
存在しなければ良かった人間。
あなたさえ存在していなければ、俺が悩むこともなかった。
そして俺にとって血の繋がった父親なんて、知らなくて良かったはずの人間なんだ。
「……今日はなぜ突然、ここへ?」
追い詰められた俺の気持ちを察したように、男が言った。
俺には答えられなかった。
上下の唇がぴたりと貼り付いてしまったかのように。
「君にも今、……愛している人がいるんだね」
男は俺の答えを待たず、糸のように目を細めた。
俺は何のために生まれてきたのか、そんなことを考えることすら放棄していた。
でも今は、彼にまた会うためにここに生きているんだ。
彼に出会うために、俺は生きてきたんだ。
それが判った瞬間、俺の生きていることに感謝するということを思いついた。
だけど俺の両親というのは、あの母親とこの父親でしかない。
「……君は信じられないかもしれないけど、私とあの人は、愛しあっていたんだよ」
静かな口調で男が語りだした。
「君も知っている通り、私には妻がいたけれど、それでも私とあの人は愛しあって、そして君が生まれたんだ」
俺はテーブルの上に、男から預かったハンカチを伏せた。
男の美化された思い出話など聞く気にはなれなかった。
でも俺の言いたいこともなくて、このまま帰る気もなかった。
「妻のことは愛していないのかと責められたら、それは、愛しているとしか言えない」
俺を笑いながら金で言いなりにした妻帯者のホモ野郎もいたっけ。
有名会社の社長で、愛妻家だって評判だった。
あんたたちにとって、何が愛なんだ?
「君のお母さんに会ったのは、妻が、……私の妻が病気だって判った時だったんだ」
俺は弾かれたように男の顔を見遣った。
「徐々に免疫力をなくしていく病気だよ。……もうじき、死んでしまう」
男の口調は淡々としていた。
大袈裟に悲しんで見せもしない。
――人の死を知っていますか、何て尋ねたことを、後悔した。
「私は酷い男だ。妻がいつか死んでしまうのだと判った途端、その時知り合った女性のところに転がり込んで、君のような子を産ませてしまった。幸せにしてやるという保証もなく、無責任に」
幸せなんて望んだこともなかった、と言いかけて言葉を飲み込んだ。
それは彼の言葉への責め苦にしかなっていない。
「君のお母さんが昔、花屋をやっていたことは知っているかい?」
俺は黙って肯いた。
いつしか、男から視線が外せなくなっていた。
「君のお母さんは両親を亡くしているだろう、実の親子のようにしていた花屋のお婆さんが亡くなって、その花屋を辞めてしまおうかと悩んでいた頃があったんだ。あの人は、途方もない悲しみに暮れていたよ。
私は彼女を救ってやりたいと思った。この世に自分は一人きりだと嘆く彼女に、そうじゃないんだと教えてやりたかった」
男は言葉を一度止めると、口端に僅かに、自嘲的な笑みを浮かべた。
「妻が、もっと体が弱ってしまう前にもっと子をなしたいと考えてくれていたというのに、私は愛人まで作っていたんだ」
男の笑い声がうつろに響いた。
「私はきっといい気になっていたんだ。彼女の花屋は私の援助で持ち堪え、私に愛された彼女は日増しに美しくなっていく。やがて君が彼女のお腹に宿った頃に、長男が家出さ」
何、――喉まで出掛かった言葉をぐっとこらえる。
俺が知っている限りの「父親」の家庭の話では、それは美人な奥さんと子宝三人に恵まれた幸せの見本だった。
「慌てて家に戻った私に、妻は申し訳ありませんでした、と謝るんだ。私は病気の妻を放ったらかしにして、君のお母さんと毎日楽しく幸せに暮らしていたというのに、妻は病で痩せ細った体で、私に手をついて謝るんだ」
この男は、最低だ。
――そう思うのに、俺にはこの男の言う「愛」がますます判らなくなってきていた。
「あの人に最後に会った時、君は二歳くらいだったかな。もう私はいいんです、と彼女は言った。私はもう一人じゃないから、と幼い君を抱いた彼女は泣きながら、私に頭を下げたんだよ」
男のスーツに、涙の雫が音をたてて落ちた。
男が語る女性の姿は、俺の知っている母親ではなかった。
この男は本当に俺の母親のことを話しているんだろうか?
この男は、本当に俺の知っているはずの「本当の父親」なんだろうか?
「私は彼女を愛していたよ。だけど今は、妻に償うための一生を送るしかないんだ。君への償いも、まだしていないのにね」
涙で声を震わせながら、男は言った。