BLUE(8)
学生の頃から頻繁に足を運んでいた居酒屋ののれんを潜って女将さんに挨拶すると、女将さんは黙って坂森や高嶋の着いている座敷を視線で示した。
「お久し振りです」
淡い色の着物がよく似合っている。
「本当に。お元気でした?」
あまり多くを語らない人で、その笑顔もどこか控えめだ。昔坂森が憧れていたっけ。
「こっちだこっち!」
酔っ払った高嶋の声に振り向く。
「何だよお前等割勘とか言ったら只じゃおかねぇぞ、一体何本空けたんだぁ?」
店の奥の座席を覗くように身を屈めながら近付くと、大量の酒壜が転がっていた。靴の踵を擦り合わせながら座敷に上がろうとしているのに、それも待ち切れない様に高嶋が俺の腕を引く。
「あ、そうだ。……すばる」
忘れていたわけじゃないけど、思い出したように振り返って紹介しようとしたその青年を見て
女将さんも坂森も高嶋も、言葉を失った。
「――優……」
坂森が思わず呟いて、慌てて口を塞ぐ。
俺は他に何も出来なくて、ただ苦笑して見せた。
「あの、……俺、調布デザイン専門学校イラスト科の望月すばるです」
不躾なまでに注がれる視線を厭うように眉を寄せながらすばるは言った。
一番先に正気に戻ったのは坂森だった。口を覆っていた手をゆっくり外して
「あぁ……例の、後輩くん」
ぎこちない口調で言った。
こんな空気は覚悟していた。すばるは何故自分がこんな洗礼を受けなければならないのか判らずに怪訝そうにしているけど、きっと坂森や高嶋ならすばるのことを判ってくれると思った。
俺がどんなにすばるに救われているかということを。
そうだ
俺はすばるに、救われていたんだ。
「……神谷」
高嶋がすっかり酔いの醒めた声で言った。
「こりゃ、夢なのか?」
お前の夢の中なのか、と高嶋は言った。
俺は高嶋、と呼び掛けようとしたけれど高嶋はその暗い表情で俺に何も言わせなかった。
「俺は確かに酔ってるけど」
そう言いながらグラスの中の日本酒をちびりと呑み、高嶋は上目ですばるを舐める様に爪先から頭の天辺まで眺めた。
「電話口で『幽霊か?』とは言ったけど連れて来い、とは言ってない」
高嶋はいつも、誰も言い出せないことを言う。高嶋は、だから友達が少ないけど、俺は好きだ。高嶋の言葉を痛く感じるのは、高嶋はいつも正しいからだ。
「あのな、高嶋」
すばるは違う、優司じゃないんだ。――そう続けようとした時、すばるの表情が視界に入った。
何だか
胸を刺すような表情だった。
「神谷」
高嶋が俺の名前を呼んだだけで
俺は高嶋に責められているように感じた。
「どういうつもりだ?」
高嶋らしくない、
ただ、どういうつもりだ、とだけ訊いた。いつもはもっとまくしたてて相手をやりこめることの出来る人間なのに
それきり何も言わなかった。俺の返事を待っているように。
優司は
坂森や高嶋とも仲良く出来た。坂森たちも優司のことを気安く優司、と呼んだ。
俺がそのことでやきもちを妬くと優司は少し笑って、
「渉、俺を、呼んで」
と囁くような口調で言った。
「……?優司」
「もう一度」
俺は何度も優司の名前を呼んだ。すると優司はその言葉に愛撫されているかのように眼を細めて、俺を見詰めた。
それで俺は、優司が何を言いたいのか判った。
「渉、俺はね。坂森くんや高嶋くんが好きだよ」
坂森にも高嶋にも優司は同じことを言った。
「でも、それは渉の友達だからだ。俺が渉と出会わなかったら一生関わらなかっただろう。俺はただの渉の居候なのに、まるで渉と坂森くんと高嶋くんと同等の仲間みたいに、こんな俺を、扱ってくれる」
俺にも友達が出来た気になる
優司は言った。
それを聞いた高嶋は激怒して、酒壜を鷲掴みしながら
「そういうもんじゃないだろう。俺と神谷が、じゃあ友達じゃなかったら俺と優司はこうして呑んでいないって言うのか?仲間っていうのはそういうもんじゃない。誰かと誰かが出会わなかったら此処にいなかった筈の人間なんて、それは違う」
今にも手の中の酒壜を振り回しそうな高嶋の語気の強さに、
優司はただ、笑った。
あの人はずっとずっと
いつまでも寂しい人だった。
思い出しても思い出しても
思い出す度に、消えてしまいそうなくらいに。
誰も何も言わない、俺も高嶋に返す言葉を見付けられないまま沈黙が続いていた。
それ打ち破ったのは、すばるだった。
「ユージって、誰なんですか」
はっきりと、聞き間違いようがないくらいの大きな声だった。