BLUE(9)

「ユージって、誰なんですか」
 五ヶ月前に俺を笑って見送った美しい人と同じ顔をした青年は
 きっと優司はこんな風に他人を見据えることなんてなかっただろうと思わせるほど毅然とした態度で言った。
「もう、存在しない人間だよ」
 その様子が気に入ったかのように高嶋はグラスに酒を注ぎ足しながら応えた。
「存在しない……?」
 すばるは眉を潜めた。
 坂森は何も言わず、じっとしている。俺も動き出せないでいた。
「望月、か」
「すばるでいいです」
 すばると高嶋以外が妙に緊張したその場で、二人の会話は淡々と続いた。すばるの挑戦的な眼差しは、俺に口を挟ませないような雰囲気すらあった。
「どこで優司の名前を知った」
 坂森が思い出したように俺用の烏龍茶を頼んだ。俺はそっちに視線を移すことすら出来なかった。
「あた、……神谷さんの、アトリエで」
「あたる、で良いよ。すばる」
 俺はゆっくり息を継ぐように言った。すばるが俺を盗み見た。挑戦的だと思った瞳は俺の気の所為だったのかも知れない。
「『あたる』?」
 坂森も肩の力を抜きながら口を挟んだ。
「神谷、あたるさん……でしょ」
 馬鹿にされた子供のように口先を尖らせてすばるが坂森を見る。
「わたる、だ」
 高嶋が口端に笑みを浮かべて意地悪く訂正した。
「あたる……」
 すばるは繰り返したつもりなのだろうが、明らかに違う。高嶋も坂森も肩を震わせて笑い始めた。
「神谷のアトリエで?」
 高嶋がグラスを傾けながら先を促すと、すばるは肩を窄めて僅かに俯いた。
「ユージ……ってサインの入った、絵を見付けた」
 高嶋はすばるの低い声に、小さく相槌を打った。
 高嶋の相槌は時々ひどく絶妙で、こいつはなんて頭の良い奴なんだろうと俺はよく思った。
「それを見つけた時」
 すばるはそこで一息吐いて、俺の方を盗み見ようとした。したのだろうけど、体が強張ってしまって上手くいかないようだった。その代わり全神経を俺に集中させていたのを感じた。
「あたるは、すごく怒った」
 高嶋はすばるの言葉を待った。すばるが言いたいと思ってることを全て知っているかのように。
 そんな高嶋の鋭さを俺は痛い、と思った。その鋭さが俺に直接向けられている時は感じなかった痛みだ。その刃が、すばるを通して俺に向けられているからこそ感じる痛み、
 高嶋の鋭さを持って光る、これはすばるの刃。
 優司の、刃。
「まるで」
 すばるは声を絞り出すようにして続けた。
「初めて逢った時、みたいな顔をしてた」
 すばるはまるで、自分が切り刻まれているような表情をしていた。
「ユージって誰なんですか」
 再び繰り返したその言葉だけははっきりと俺の耳に響いた。優司の名前が、聞き慣れない言葉に聞こえた。
「俺と、何の関係があるんですか」
「そっくりだ」
 高嶋はグラスを空け、事も無げに言い流す。すばるが顔を上げると、
「顔がな」
 と付け足して笑う。
 さり気なく、もしかしたら無意識に強調した。
 俺がすばるに逢ってからずっと暫らくの間、すばると祐司の違いなんか判りきってもまだ、二人を重ねて見てしまっていたのに
 高嶋はもう二人を分けて見ていた。そして、俺が彼等を重ねて見ていることに気付いていた。
「勿論」
 高嶋はゆっくりと言葉を継いだ。言葉を選んでいるように。
「比べ物にならないくらい、美しい男ではあった」
 美しい、と
 すばるは口の中で繰り返した。
「お前には真似の出来ない美しさだ。そりゃそうだ、お前はお前で、優司は優司だからな」
 すばるをフォローするつもりで言ったのか、それとも俺に釘を刺したのかは知らないけど、高嶋はそう言ってから俺に同意を求めた。
「美しい、って」
 すばるが呟いた。俺が返答に詰まっていると
「何かこう、繊細なイメージのある人だった」
 坂森が優司を思い出すように目を伏せた。うん、と俺は言ったのかも知れない。その時のすばるの表情だけが目に焼き付いて、覚えていない。
「何、そのユージって人、あたるのおホモだちか何か?」
 場の空気を切り裂きたいかのように、全てを振り払うようにすばるは叫んだ、と俺の耳には聞こえた。実際は大きな声ではなかったんだろう。でも俺の胸の中にそれはひどく大きく響いた。
 高嶋も坂森も何も言わなかった。
 俺の中にしか答えのないものだから
 きっと優司の中にも、ない答えだった。
「……そうだよ」
 俺がそう答えた瞬間、すばるは店を飛び出して行った。誰もが予想していて、止めることは出来なかった。
 そうだよ、と言いながら
 俺には判らなかった。
 俺は結局あの人の
 何だったのか? 俺はすばるに何を求めていたのか?
 ただ、目を閉じると
 優司の遺した蒼だけが目蓋の裏に映っていた。