BLUE(7)

 仕事の量は徐々に増えていった。勿論、ある日突然「もう描けません」「描けない物は描けないんです」なんて言ったイラストレーターに世間は決して優しくはないけれど。
「大丈夫だよ」
 右の頬に黄色の絵の具を付けたすばるは言う。
「だってあたるの絵は、すげ―もん」
「そりゃどうも」
 俺が軽く流すと、すばるは明後日が提出日の課題から視線を外して拗ねたように唇を尖らせた。
「本当だよ」
 俺が恥ずかしくなって背中を掻きたくなるような事をさらりと言う。
「誰も嘘とは言ってない、そりゃー俺は天才だとも」
 俺が茶化すとすばるは肩を揺らして笑った。
 すばるのイーゼルは俺のアトリエに置かれるようになった。いつの間にかすばるの珈琲カップがキッチンの戸棚に入っていた。
 俺の仕事は以前のようにアトリエで行なわれるようになり、すばるは学校から直接俺のこの部屋にやって来た。
 埃の積もっていた床に風が吹き込んできて、すばるのイーゼルを置く為に作品の整理整頓がなされ、俺の生活は目に見えるように明るくなった。
「すばる、どうだ調子は?」
 有名女性誌のカットを描き終えて珈琲を淹れた俺が尋ねると、すばるは呻くように小さい生返事を返した。キャンバスに向かう目は真剣そのものだ。昔の俺も、あんな眼をしていたのだろうか。
 すばるは男にしては口数が多い方だと思うが、その分絵筆を持っている時は何を話し掛けても短く呟くだけだ。
 ……集中力の持続する時間は短いが。
「珈琲ここに置いておくから」
 邪魔をしないように脇にそっとカップを置くと、
「はい、ありがとでスー」
 もう乱れている。
 笑った俺にすばるは何だよー?と視線を投げてきた。
「何でもないよ」
 すばるは家に勘当されて出てきたと言っていたが、アルバイトをしている気配はない。学校から真っ直ぐ俺のアトリエに来て、夜が更けるまでここにいる。コンクールや雑誌で入賞したという話を聞くことはあるけど、その倍の数の出品量を払っていたらとても生活は出来ない。
 すばるが珈琲に手を伸ばしたのを見計らって尋ねると、
「貯金崩してる」
 と素っ気無く応えた。
「そうか、悪いな」
 俺は何となく謝って、すばるが家のことに触れられるのを嫌がっているのを感じた。
 窓の外に夕焼けが広がっている。優司がここを去ってから五ヶ月が経とうとしていた。
「あたる」
 俺を呼んだすばるを振り向くまでもなく呼んだ理由は判った、電話が鳴っている。
 出版社からか、と思いながら受話器を取ると懐かしい声が零れてきた。
『アトリエにいたのか、珍しい』
 坂森だった。
「あぁ。どうしたんだ、そっちこそ。珍しいじゃないか」
 電話の向こう側からは人の声が波のように聞こえて来ていた。
『あぁ、いま高嶋と呑んでるんだ』
 同じく懐かしい顔が脳裏に浮かんだ。
『偶然逢ってな』
『お前も来いよ』
 突然高嶋の声が割り込んできた。
「何だ、随分出来上がってるじゃないか」
 俺が笑ってるのを見て仕事関係の電話じゃないことを察知したらしくすばるが立ち上がって窓を閉めた。実は先刻仕上げた女性誌の仕事は〆切を過ぎていて、そんな電話で物音を発てられたら何を言われるか判ったものじゃない。
『誰かいるのか?』
 坂森が神妙な声を出した。
『今何か物音が聞こえたようだけど』
『幽霊だー』
 高嶋が呂律の回らない声で言う。誰の幽霊か、とは言わない。
「あぁ。俺達の後輩……になるのかな」
 すばるを振り向きながら言うと、すばるもきょとんとしてこちらを見ていた。
『後輩?』
 何だそりゃ、と坂森が聞き返したので、俺はすばるを手招きして呼び寄せた。
「坂森とか高嶋って知ってるか?」
 近付いて来るすばるに尋ねてみたが、首を傾げる。そりゃそうか、幾ら何でも卒業生全員を知ってるわけじゃないだろう。俺が笑うと、すばるは俺の傍らにすとんと腰を下ろした。
『まぁいいや。お前も来いよ”純”で呑んでるからさ。その後輩ってのもつれて来い』
 それじゃあ三十分後に、と言って電話は切れた。
「友達?」
 すばるが俺を見上げて尋ねた。
「イベントプランナーをやってる坂森ってのと、ゲームデザインをやってる高嶋っての。お前の先輩だよ、つまり俺の同級生」
 四期も離れてちゃ知る筈もないだろうけど、と俺が付け足すとすばるはふーん、と呟いた。
「俺あたるしか興味ないもん」
 絵を描いていこうと言うのではそうだろうな、と俺はすばるの頭を撫で、
「呑みに行くぞ」
 財布を尻のポケットに押し込みながらすばるを立ち上がらせた。
「え、俺も?」
「何だ、嫌か? 大丈夫、俺と違って二人は立派な社会人だからお前の分くらい奢ってくれるよ」
 俺の分も奢ってくれないだろうか、と俺が真顔で付け足すとすばるは跳ねるように立ち上がり、行く行くっと無邪気に笑った。
「良いなぁお前は、金の心配しなくて良いんだから」
 慌しく仕度をするすばるの姿に腕を組んで俺が言うと、
「奢ってもらえるのが嬉しくて行くんじゃないよ」
 とすばるはちょっとムキになったように俺を振り返った。
「あたると一緒に行けるから喜んでるんだよ」
 すばるは、何でも真っ直ぐ言葉を繋ぐ。俺は時々どう返事して良いか判らなくなって、言葉を失う。
「……あたる?」
 なんか俺また変なこと言った?とすばるが仕度の手を止めて俺の顔を覗きこんだ。
「片付けなんか良いから、早く顔洗ってこい」
 無防備なすばるの鼻を摘んで、俺は笑った。