BLUE(5)
「あたるあたるあたるあたるーーーーーっ」
俺は何となく、学校に通うようになっていた。もう一度一から始めようとしているみたいだった。
優司のことは忘れないけど、優司に出会う前の自分を思い出したいと思っていた。
「あたるっ」
すばるは俺が学校に行くと必ず俺にまとわりついて、何度も一緒に授業を受けた。先生のアドバイスよりも俺の意見を乞うので講師陣には渋い顔をされた。
「見てよ、これッ! 俺の絵載ったんだよーっ」
彼は鼻息も荒く、左手に力一杯握り締められた美術雑誌を拳のまま俺の鼻先に突き出した。
「これ、あたるが来たら真っ先に見せようと思って
先生にも友達にも見せないで待ってたんだ」
誇らしげに告げる彼に俺は少し笑って、雑誌の頁を開いた。
「これこれ」
彼が指差した場所には、五点選ばれる優秀賞ではあったけど彼の絵の全体の写真と選者の評がついていた。
「賞金五万か」
辛口で有名な評を読みながら俺が呟くと、
「あたるッ!金じゃないだろー? 褒めてくんないの?」
両手を振り回して怒って、それでも俺が「冗談だよ、すごいすごい」と笑うと、急に照れくさそうに相好を崩して笑った。
「この賞、あたるも取ったことあるだろ? 勿論あたるは大賞だったけど」
彼の絵には、赤や黄色や、本当に明るい色が多い。
光りに満ち溢れたイラスト
もし優司が生きている頃に彼に出会っていたらどうしていただろう。
この光にあてられて、やはり優司は消えて仕舞っていただろうか。
「――!」
胸の奥に抉られるような痛みが走った。
まるですばるが、優司を消してしまったように思う、なんて。
「あたる……?」
すばるが心配そうに眉を潜めて俺の顔を覗きこんだ。
「どうしたの?大丈夫?」
何度言い聞かせたら、俺は納得するんだろう。
優司とすばるは別の人間で、どちらかが陰や光ではないんだと。
「あぁ……悪い、何でもない」
もう一度雑誌に目を落としてからすばるに雑誌を返すと、彼は急に笑顔に戻り
「あたる、今度アトリエつれてってよ」
雑誌を抱きかかえて彼は言った。賞を取れたお祝いに、だというつもりらしい。
「あぁ、良いよ」
もう止めよう。
逢う度に彼と優司を比べるのは。
「うひょ~~~~~!! 憧れの神谷さんのアトリエ! 俺こんな幸せで良いの? 良いの?!」
拳を突き上げて飛んだり跳ねたり、電車の中だろうと公道だろうとお構いなしに騒ぎたてる物だから、俺は多少げんなりしていた。
「良いよって言ったからって即日行動するか? 普通……」
まったく近頃の若者は、と大袈裟に溜息を吐きながら俺がぶつぶつ言って彼を横目で見ると
「だってアトリエ行きたいって言ったの二回目ですよ?」
と俺の表情を伺いながらすばるが言った。訊き返すと、どうも初めて逢った日にも申し入れていたらしいのだ。
「覚えてねぇって、そんなの……」
大きく溜息を吐いた俺に彼は手に持ったままの雑誌をひらつかせて入賞祝い、を連呼した。彼の屈託ない様子には次第に笑みが零れて仕舞いそうになる。が、ここで甘やかしてはいけないぞと頬を引き締めて。
「やっぱ未発表の作品とかありますよね?」
アトリエが近付くにつれて彼のテンションは下がってきた。
「あぁ、うん。そりゃあな」
部屋(アトリエ)汚いぞ、と俺が付け足すと彼はぎこちなく笑った。
「昔の作品とか……」
語気も弱くなる。一体どうしたんだ、と思いながらアトリエ――と言っても只のアパートの一室だが――に辿りつくと、すばるはとうとう何も話さなくなった。
「緊張してるのか?」
と訊くと、首の上下運動だけが帰ってくる。変な奴だ、と俺が笑いながら部屋の扉を開くと、背後で息を飲む声が聞こえた。そんなに大層な物でもあるまい、俺の方が緊張してしまう。
この部屋に入るのも久し振りだった。仕事をしなければ、と焦っても思うようにいかない。この部屋に居ること自体に焦りを感じるようになり、多少の依頼なら学校で済ませるようにしていた。
「見て良いですか?」
急に敬語を使うようになったすばるにどうぞ、と笑って見せて俺は埃くさい部屋の窓を開け放った。珈琲でも淹れてやろうと仕度している間にも俺のファンだと言った青年は「あっこれあの作品の没になった奴ですか」とか「これどうやって描いたんですか」などと興奮しきった様子でまくしたてた。
かつてこの部屋がこんなに賑やかになったことなどあるだろうか。今まで閉め切られていた窓が開かれ、陽の光や新鮮な空気が飛びこんでくるように、この部屋に
昔、どうしてもイラストを描いていきたいと願った若い頃の俺が帰ってきたように。
「あれ……これ?」
急にすばるの絶好調トークが勢いを止めた。珈琲をカップに注ぎ終えた俺が視線を送ると、彼の前には一枚の油彩画があった。
「これ……神谷さんの絵じゃ、ないですよね」
すばるの手がキャンバスに伸びる。
「あ、サインが……えーと、YU……?」
「さわ、るな!」
俺は珈琲カップを払い除けて彼の肩を掴んでいた。
「…………」
すばるが丸い目を向いて俺を振り向く。先刻まで止まることを知らなかった唇は乾いて動かなくなってしまったようにぴたりと閉ざされていた。
「さわるな、これは――……見るな」
深い
青だけで描かれた絵。
「彼」の自画像。
青色だけを重ねて重ねて、深海の世界のように奥行きのある
世界中でたった一人きりだった彼の
自画像。
「あた、……神谷、さん?」
身を声を震わせて彼を拒絶した俺に脅えたように、彼は言葉を紡いだ。
「……すいません、俺、何でもかんでも」
彼がいなくなる二日前
この絵は気に入ってるんだ、と
突然言った。
彼が予告した彼の死は、彼の遺言は数多くあった。
その内の一つだったから、この絵だけは決して棺に入れなかった。
「謝るくらいなら……最初から、するな」
俺はこの絵を見る度に哀しくなった。
俺は優司の、何だったんだ?
一人のまま、何処へ行ってしまったんだ。
「お前は誰なんだ? 本当に存在する人間なのか?」
優司なんじゃないのか?
本当は優司なんじゃないのか?
いつも無防備に笑うことなんかなかった
勘当される身内もいなかった
わくわくして騒ぐことも、緊張して無口になることもなかったもう一人の
優司なんじゃないのか。
「神谷……さん?」
すばるがどんなに不思議そうに俺を凝視しても
もう俺は止まらなくなった。脈拍が上がる。
「渉、と呼べ」
優司なんだろう、優司なんだろう?
俺の愛した
「あ ……たる?」
ただ一人の人。
「わたる、だ! 畜生、お前なんかいなければ良い! もう二度と俺の前に現れるな――――ッ……」
きつく目を閉じて怒鳴るとすばるの返事はなく
暫らくして目を開いた時には
そこには優司の遺した一枚の絵があるだけだった。