BLUE(4)
すばる、という青年の作品を先生に幾つか見せてもらうと、それは久々に俺の感性を刺激した
……ように感じた。しかしそれは、すばるという青年の容姿を知っていて、その容姿を、俺の人生で唯一人愛した人に似た容姿を知ってしまった後だから、そう思っただけなのかも知れない。
俺の感性なんてその程度のものか、と思った。
それでも仕事はしなくちゃいけない、これじゃ優司に合わせる顔がない、俺は先生に何か仕事の伝手はないかと尋ねた。プライドなんて物はこの際構っていられない。一時は当学校一の出世株とまで言われた俺なのに。
「あたる、今不調なの?」
キャンバスにぺたぺたと音を発てて色を塗りながらすばるが尋ねた。
「あぁ……うん」
もうここ何ヶ月も何もしていないんだ、と俺は応えた。曲がりなりにもファンだと言ってくれた彼には申し訳無いけど。
「勿体無いなぁ。俺、あたるの……神谷さんの描く絵、すげー好きなのに」
そう言って笑うすばるを見て、俺は目を逸らした。
ここに居るのはすばるという青年だ。
優司じゃない。
「すばる、その絵は赤一色なの?」
逸らした視線の先のキャンバスを指して俺が尋ねると、すばるは少年のように笑って頷いた。
――優司、その絵は青一色なの?
優司が俺のアトリエで偶に絵を描く時は青ばかりを使った。それも、黒の混じった暗い青だ。
いつも彼の心の中には寂しさが付き纏っていた。
同じ布団で眠る夜も彼は時折うなされて、俺にしがみついて震えた。俺が優司の帰る場所だよ、と何度も言ってやると
彼は落ち付いた。
でも結局、俺は彼の居場所にはなってやれなかった。
「あたる?」
気がつくと、すばるが俺の顔を覗き込んでいた。
「あ……あぁ、ごめん、何?」
「この絵、変かな?」
そう言ってすばるが示したその赤い絵は、ひたすら赤で覆い埋め尽くされた抽象画で赤と一言で表現するには勿体無いと感じる程多くの紅に染められた世界を感じた。
俺が素直に彼にそう告げると、すばるは照れたように笑った。
「これは、俺なんだ」
照れくさそうにしながら、でもしっかりと俺の目を見返した。
「俺は将来、絵で食って行く。その自信と、明るい未来と、俺の目指す人への嫉妬と、そういう物を全部赤で表現してみたんだ」
語った彼の目は、優司では無かった。彼は「すばる」で、よく見れば全然違うのに、その細い体には熱い血がみなぎっていて、優司の冷たい体とは違うのに――
「この絵、両親に送るつもり」
彼は屈託なく笑った。
「……なぁ、あたる」
にこりともしない俺を不審に思ったのか、何なのか、キャンバスに更に赤い絵の具を重ねながら背中越しに俺を呼んだ。
「いつになったら、仕事すんの?」
俺はすばるの背中に苦笑を零した。
すばるは、無邪気だ。
「うん、もう直きね」
考えてみたら、すばるはまだ子供なのだ。
優司は俺より二歳年上だった。俺よりうんと大人だった。何をしても彼には勝てなかった、トランプやダーツ、口喧嘩に至っても。彼は俺よりも俺のことをよく知り、いつも俺の精神状態を把握していた。
いつか俺は優司に、俺は優司と居ると安心し過ぎて成長しない、と非難したことがあった。彼はその時にもあっさりと「それは渉が子供だからだ」、と言い下した。それきり俺は何も言えなくなった。確かに俺は子供だったのだ。
「あたる」
すばるが俺を急に振り返った。
「俺を描いてよ」
「……え?」
俺がきょとんとしている間に彼は俺用にスケッチブックとペンを用意した。
「どうせ暇だろ?俺神谷さんのファンなんだからさー、ファンサービスと思って」
強引に俺にそれらを押し付けると、にこにこ顔で俺の返事を待っている。
「なっ?なっ?」
了承する以外の返事は有り得ないといった体だ。
「…………」
短く溜息を吐いて俺がスケッチブックを受け取ると、すばるは大袈裟にガッツポーズを作り、雄叫びに似た声を上げた。
「じゃ、そこに座って。好きなポーズで良いから」
俺が受け取ったペンの先で椅子を指すと彼は急に真顔になってかしこまった。
これはもしかしたら、彼なりの励まし方だったのかも知れない。そう思うと、俺の唇には自然と笑みが浮かんだ。
スケッチブックにペンを走らせる。
すばるの、遠方を見詰める眼差し、少年のように凹凸のない輪郭線。
小さな鼻、薄い唇――
「……ッ、」
俺は思わずペンを置いた。堪えきれなくなって深く俯く。
「あたる?」
俺の手の中にあるスケッチブックに居るのは、すばるじゃない。
あんなに愛した、飽きることなく見つめ続けた、
唯一人の恋人だった。
「渉」
優司は美しい人だった。
「ほら、これ。優司に」
容姿も仕種も全て、
彼をとりまく空気も彼の発する言葉も
彼の存在を縁取る寂しさや、孤独も、何もかもが彼を美しくさせていた。
「また誕生日プレゼントは肖像?」
俺は彼と過ごした数年間、彼の誕生日には必ず肖像画を贈った。
年を追うごとに彼の寂しさを、誰のことも信用出来ない孤独感を
俺の存在で安らげてあげられたら、とそんな想いを込めて贈った。
「だって優司が他に何も要らないって言うから」
他にも何かにつけて彼を描いた。
特に優司が俺の前からいなくなる数ヶ月前からは、それまでより多く彼を描いた。
彼を
永遠に忘れまいとするかのように。
「うん、嬉しいよ。有難う、……渉」
そう言って優司はいつも微笑んだ。
でも、その多くの肖像は
彼の肉体と共に焼いてしまった。