BLACK(4)

「あたる……」
 さすがに母も言葉を失っていた。優司を知る人なら皆、言葉を失うだろう。
「あ、あの、デザイン学校の、後輩の」
 坂森が花瓶を抱えたまま微動だにしない母に慌てて説明を始めた。花瓶を落とさないでいる母の背中しか、俺の目には届かない。
 母はどんな顔をしているのだろう。自分の息子をこんな自棄にさせた優司の事を母はどう思っているんだろう。
「望月すばるです」
 すばるの自己紹介する声を聞きながら、俺は息が詰まるような感覚に襲われて眼を閉じた。
『望月』――……。
「あた、――神野さんのイラストに憧れて、お世話になってます」
 すばるが頭を下げると、ようやく母の息遣いが聞こえた。感嘆したような、溜息にも似た呼吸。
「渉、……優司くんにとっても似てるのねぇ」
 かーさん吃驚しちゃったわ、と夢から覚めたように目をぱちくりさせながら俺の顔を振り返る。俺は薄く目を開くと唇に笑みを浮かべて
「だろう、……俺も凄い驚いた」
 誰も何も言わない内に、
 沈黙すら寄せ付けないように俺が答えると、坂森も高嶋も他愛のない言葉を繋げてその場を取り繕った。
 これは全て夢なのかも知れない。
 優司が轢かれたのも
 俺が仕事を投げ出してこんなに自分を殺してしまいたいのも
 すばるの存在も、全て夢だったら。
 或いは俺の存在そのものこそが、ここに本当は存在しない存在だったなら
 優司を愛さずに済んだのかも知れない。
「ごめん、俺ちょっと寝るから」
 何事もなかったかのように談笑する四人を無視して俺は病院の消毒液臭い毛布を頭まで被った。
 何も考えたくない。
 誰のことも、
 俺のことすら。
 
 入院していると、俺の意思や感情に反して朝が来るたび、時間に忠実に起こされ、眠らされ
 食事を摂らされ、心配してくれる親と話したり、仕事の関係者が見舞いに来てくれたりしたけれど
 それらは全て俺の中身を無視して、表面上を通り過ぎていく日常。
 平和な会話、復活していく体調、穏やかな朝日、それらと俺の中に燻っているどす黒い何かがかけ離れていけばいくほど、
 俺はそつなく日常をこなせるようになり、自分の中の何かが狂っていくように感じた。
 一週間で退院した俺を、母親は実家に閉じ込めるようにして監視下に置いた。
 大事な息子なのだから仕方がない。大事な家族なのだから、俺だって有難い、申し訳ないと思いこそすれ逃げ出したいとは思わなかった。
 ただ、俺の中で狂い出した何かは次第に俺の指先を通じて絵の中に現れ始めた。
 坂森に以前から勧められていた個展を開こうかなどと――目下の所金もないのに思い始めて、少しでも描き溜めておこうとする絵は
 とても俺の絵とは思えなかった。
 色が、俺の思う色にならない。
 筆が思う曲線を描かない。
 体調は万全なのに、優司の亡霊も手の届かない実家にいる所為で気持ちだって落ち着いている筈なのに、
 もう一人で生活も出来るくらい何ともないのに、絵だけが描けない。
 今までの不義理は体調の所為だったのかと好意的な解釈でまた仕事をくれる人もいたのに、今の絵では使えないと言われた。
 これは神野渉の絵じゃない。そんな事を言われるまでもなく判っていた。
 俺は描く意欲を失っていった。
 酒を止め
 煙草を止め、
 好きで就いた筈の仕事も失って
 毎日が幻のようにただただ目の前を通り過ぎていく。
 朝起きて、朝食の後で散歩に出て、昼食を食べてテレビを見て、母親の家事を手伝って夕飯を食べ、早くに就寝した。
 今更サラリーマンになろうかななんて求人広告も真剣に見た。
 俺はただ生かされているだけの人形だった。
 何処に行くのか、
 足下が見えない、なんてものじゃなく
 自分が本当に立っているのかさえ判らなくなっていた。

 その日は朝から降っていた霧雨が昼過ぎに止んで、
 俺は夕方から散歩に出かけた。
 湿った空気が肌に心地良い。俺は向こうに大きい幼稚園が見える芝生まで来ると大きく息を吸った。
 冷たい水分を含んだ外気が肺に滑り込んできて、四肢までゆっくりと広がっていく。
 もう一度風景画や静物画に戻って、水彩画でも描いてみようかなんて
 そう考えながら雨の雫が落ちた草の上をゆっくりと歩く。
 絵は趣味としてゆっくりと楽しみ、サラリーマンとして何となく生きていくのも良い。
「あたる」
 俺は、背後から呼ばれたのにも気付かずにこれからの自分の身の振り方を思案していた。
 考えてみたら俺は高校を卒業するまで絵を描いて飯を食っていくなんて事を夢にも思っていなかったのだ。
 ただ、サラリーマンになる自分を想像できなくて坂森や高嶋と一緒に美大を受験して、落ちて、あの学校に入ったんだった。
 こうして成功できた俺は恵まれている。恵まれていた。長い間夢に思っていても、なれる人なんてほんの一握りのものなのに。
「あたる」
 俺は腕を掴まれてもまだ、別の事を考えていた。
 考えようとしていた。
「家に行ったら散歩に出てるって、言われたから」
 顔さえ見なければ心を動かされたりしない。
 俺は女を愛したことがない性癖で、
 もしかしたらすばるを抱きたいと思っていたかも知れないけど、それは全て顔の所為だった。
 あの人に似た。
 「あたる、……こっち向いてくれよ」
 俺の腕を掴む手も、俺の名前を呼ぶ声も
 何もかも別の人だ。
「なぁ、あたる」
 その人は俺の前に回って顔を無理矢理覗き込んできた。
 最初の頃
 この、俺を覗き込む視線に思わず優司、と呼びかけそうになったことが何度もあった。
「あたる」
 俺は何度目かに呼ばれた後、ゆっくりと瞼を落とした。
 遠くで鳥の啼く声がする。視力を失った人は聴覚が研ぎ澄まされるという。
 肌を包む雨を含んだ空気も、以前より更に優しく感じられた。
「あたる、……――俺ってそんなによく、似てるの」
 俺の腕を掴んでいた手が離れる。
 すばるが笑ったような気配を感じた。
「ユージさんに」
 その名前が音になって届いた瞬間、俺は眼を開いた。
 そこには優司の顔があるのに、優司はここにいない。
「あたるは、俺に初めて逢った時からずっと、一度も俺の顔なんて見たことないんだ?」
 すばるは笑ってはいなかった。俺を睨みつけるような真っ直ぐな視線を向けて、唇を震わせている。
 優司の顔なのに、声も、言葉も、優司のものじゃない。
「俺と馬鹿言って笑ってたって、俺に笑いかけてくれたって、褒めてくれても頭小突いても」
 すばるの拳が俺の肩を叩く。
 ただ表面上をさらさらと流れていくだけの日常を突き抜けて、すばるの拳が俺を叩く。
「何してたって、――……何、してたって……」
 その力が徐々に強くなって俺は足を後退させた。
 すばるの声が大きくなる。雨の混じった空気を鈍く震わせて俺を叩く。
「それは俺に対してじゃない、ユージに対して、だ」
 俺はすばるに強く肩を押されて、芝生の上に尻餅をついた。
 雨粒が草から跳ね上がってズボンを濡らす。
 見上げたすばるの頬も涙に濡れていた。
「あたるの中に俺は、いなかったんだ。最初から」
 優司の顔が涙に濡れているのに、案の定俺は何もしてやれない。
 ただ黙って、言葉をなくして、見上げているだけ。
「望月すばるっていう人間は、あたるにとってユージの面影でしかなかったんだ」
 ……だけど果たして、優司はこんな風に全身を震わせて、声をしゃくり上げながら涙の雫を拭おうともしないで流したりしただろうか?
 歯を食い縛って、頬の筋肉を悔しさに引き攣らせたりしただろうか。
 これは、優司の顔をした、別の人だ。
「俺は、あたるがどんなにその人を愛してたか知らない。……きっと計り知れない。じゃあ俺は? 俺のことは、あたるはどう思ってたんだ?」
 すばるは投げる球を曲げる事を知らない。直球しか知らない。
 優司のように諦めて息を殺すことも知らない。球を直ぐに打ち返してくる。自分一人で考えても仕方のないことを、考えないでもいられない。だけど、逃げない。
 俺はそのまますばるの顔を馬鹿みたいに見上げる事を止めて芝生の上に寝転んだ。
 勢いよく倒れこむと、濡れた芝生から面白いくらい飛沫が上がった。
「……何しに、来たんだよ」
 雨がまた降り出した。
 俺がうわ言のように呟いた返事に、すばるはただ言葉を詰まらせた。