BLACK(3)
親が生活を正しく矯正してくれようとするので
生活の拠点をアトリエに移し、一日中何も口にしない日々を続けた。
『渉』
アトリエには、優司の亡霊がいるのだ。
俺は何度もその霊に逢った。
『渉はいつまで経っても子供だなぁ』
優司は兄貴面して誇らしげに笑った。
そうだよ、俺なんて
ずっと子供だ。
叱るなら、呆れるならそうすれば良い。
嫌われても良いから
「優司に、――……逢い たい……」
両目から涙が途絶えることはなかった。
もう駄目だ、
二度も仕事を捨てるような奴はもうどんな仕事も廻ってこないだろう。
ならば、もう、いいや。
どうなってもいい。
このままずっと永遠に食を断って、優司の所まで行こう。
優司、俺は子供でどうしようもないよ。
この先もずっと優司を忘れられなくて、逢いたくて、
虚空にいる優司を抱き締めて、何も残らない胸の冷たさに苦しんでいくんだ。
「優司」
名前を呼んでも現れてはくれない優司を探して、俺は鉛のように重い体を起こした。
床に落ちたキャンバスを引き寄せる。
優司は白いキャンバスを蒼一色で染め上げた。
すばるは、
赤で。
じゃあ、俺は――……?
白は神聖で純粋で、俺には程遠い。
黄色は煩いし目に痛い。
確か優司も嫌いだと言っていた。刺されるような色だ、と。
緑は落ち着いた安らぎの色で俺には相応しくない。
紫、になれるほど
俺は優司もすばるも判ってやれなかった。
俺は絵の具のチューブを一つ取り出して、そのまま床に転がった。
俺にぴったりな色を見つけた。
自己中心的で、内へ内へと潜り込んで行くばかりで誰のためにもなれないし何も生み出せない。
『渉』
優司の亡霊がまた俺を呼んだ。
「優司……」
逢いたい。
もう一度逢いたいよ。
「優司、――優司……ッ!」
誰か、
俺を殺してくれ。
*****
誰かがアトリエのドアを叩いていた。
俺はそれを、母の胎内にいた時に聞いた心音のようだと思って聞いていた。
勿論そんな記憶はないんだけど。
俺は眠っているのか?
「渉!」
ドアの向こうが騒がしい。
頼む、俺を呼ばないでくれ。
俺をこの世に縛りつけるものなど、何一つ要らない。
俺も、
優司と同じように、独りに、なるんだ。
「渉、……おい」
あぁそうだ。
キャンバスが白いままだ。
俺は体を起こすのも難しくて寝転んだまま絵の具のチューブを開けて掌にひねり出した。
キャンバスに塗りつけると、白が切り裂かれるように黒い筋が描かれた。
これは楽しい。
俺は両手に絵の具を擦り付けてキャンバスを殴りつけ、その白を覆った。
俺を叩きのめすように
この世を覆すように
優司を奪った、
あの男を掻き消すように。
「渉、いないのか? 渉……!」
扉の外ではまだ人の声がする。
俺は体の底から混みあがってくる笑いを抑え切れなくて、
気が付くと黒い絵の具に塗れて笑っていた。
「渉」
優司の肌は透けるように白い。
太陽に当たらなくちゃ駄目だと俺は何度も言って優司を家の外に連れ出した。
優司も俺の提案を拒んだりしなかったけど、優司の肌は日に当たっても赤くなるばかりで決して白さが変わらなかった。
別に病弱なわけではないのに、その白さと物腰の儚さがそんな印象を受けさせた。
「今日は家に帰った方が良いんじゃない?」
優司がある日そう言ったのは、俺の母の誕生日だった。
「いいよ」
俺と母は仲が悪いわけでもなかったけど良いわけでもなく
俺は実質上アトリエに住んでいて実家の俺の部屋も物置になっていた。
俺としては割り切った親子関係を続けるつもりだったのだが、母は自分の老いを知るにつれ俺に口うるさくなってきた。
「どうして――……」
俺が、しつこく言い募ろうとする優司の唇をキスで塞ぐと
優司は眉を潜めて睫を落とした。
その頬に落ちた影が濃くて、俺は居た堪れなくなる。
優司の親は何処でどうしてるんだ、死んでしまったのか、生きているのか
俺は優司の何も知らない。
知っているのは優司の姉の死に顔と、
優司の
俺には抱えきれないほどの
寂しさ。
「優司」
俺はどうしたら良いか判らなくて、ただ
優司を抱き締めた。
「……そんな顔を、しないで」
そう言うのも躊躇われた。
笑って、とも言えない。
優司の涙も、俺は見たことがなかった。
唯一の身内である姉が死んだ時も彼は泣くことがなかった。
そんな顔をしないで、と言うより
泣いて良いんだ、と言う方が楽だったかも知れないけど
俺には何故だか言えなかった。
きっと
優司の涙を前にしても、俺には何も出来ないことが
判っていたから。
*****
「……渉!」
長い
夢を見ていた。
目を覚ますとそこには坂森と高嶋がいて、俺は病院のベットの上だった。
「……あぁ、」
優司の夢を見ていた。
「あぁ、じゃないだろ?!ここがどこだか判るか?」
坂森は営業職のようなものだ、とか言っていたのにこんな所に来ていて平気なんだろうか、今日は一体何日で、一体俺はいつからここにいるんだろう。
坂森の仕事は大丈夫なんだろうか、高嶋は締め切りがあるんじゃないだろうか。
仕事を放ったらかしにするとロクなことがないのに。
「おい、渉」
聞いてるのかと坂森が俺の顔を覗き込んでくる。
「……死にはしないよ」
俺は、無意識にそう答えていた。
言った後で、あぁ俺は死んでいないんだなと自覚した。
「目が覚めた?」
花瓶と、大袈裟な花を持って母がベットまでやって来た。いつの間にかひどく老け込んでいるように見えた。
それとも俺が彼女を老け込ませているんだろうか。
「心労と栄養失調だって、……あんたちゃんと食べてたの?」
俺は大きく溜息を吐いて返事をした。
今は誰とも、話したくない。
「坂森くんがアンタんとこに電話しても繋がんないからって……
アパートの方行ってね、見つけてくれたのよ」
あぁ、扉を叩いていたのは坂森だったのか。
坂森も優司の亡霊を見ただろうか。
「坂森」
俺がベットから上体を起こそうとすると、母が肩を押し遣って止めた。
「描き途中の絵があっただろう、あれ、どうした?」
尋ねられた坂森は苦笑したような表情で唇を僅かに噛んでから
「あそこに置いたままだよ」
と言った。
あれが俺の自画像だと言ったら、坂森は何て言うだろう。
高嶋なら技術的に批判を寄越してくれるかも知れない。
優司は、
何て言うだろう?
「――あたる!」
その時、病室にもう一人の来客があった。
「あたる、……」
すばるだった。