天使の幸福(6)

 駅前の人通りが多い道を、武を見失わずに走ることは奇跡的だった。
 酔っ払って道幅一杯に広がり歩くサラリーマンたちをかわしながら走るのは難しく、人にぶつかりながら脇目も降らずに駆ける武に追いついたのは、人気もないガードレール下に辿り着いてからだった。
 もうみんなのいる居酒屋からは何メートルも離れている。
「……武」
 息を切らしながらも、一度捕まえた武の袖にしがみ付くようにして俺は武を引き止めた。
 今この手を離したら、もう二度と捕まえられないような気がした。
 武は泣いていた。
 武はいつも、声をたてずに静かに泣く。
 深く俯きもせず、ただ睫毛を少し伏せて、止め処なく溢れてくる涙を拭おうともしない。
 それは不謹慎かもしれないけど、美しい光景に見えた。
 天使が零す涙は、その悲しみが深いほど宝石のように澄んで見えた。
「……ごめん、……ひびき」
 消え入りそうな、震えた声。
「ごめん、…………っ」
 武がもう一度声を絞り出した時、俺は反射的にその肩を抱いた。
 武が、消えていなくなってしまいそうな不安に刈られた。
 俺の、目の前から。
「ひ、……っ・ぅ」
 武の唇から嗚咽が漏れる。俺の肩口で、それは震えていた。俺はそれを押し隠すように、武の体をきつく抱き直した。
「俺……なんか、俺なんかもう……っ」
 聞いている俺までもが身を引きちぎられるような気持ちになる、悲痛な声。
「俺なんかもう、……消えてしまえばいい」
「!」
 弾かれた様に、俺は武の肩を掴んで、その言葉を諌める様に揺さぶった。
「俺なんかもう、要らない」
 でも深く俯いてしまった武は否定的な言葉を繰り返した。まるで自分に暗示をかけるように。
「もう嫌だ、こんなのは……。こんな俺なんて、跡形もなくなってしまえばいい……っ」
 叫びにも似たか細い声。
 俺は、他に武の言葉を止める術がなくて、その頬を殴り飛ばした。
 力なく武は後退し、二三歩離れてから尻餅をついた。俺に打たれた頬を、押さえようともしなかった。
「ひびきに俺のこんな惨めな気持ちが判るのかよ!」
 武の目が、俺を射抜いた。
 殴ったことを責めるのではなく、武の気持ちを判らない俺を、責める目だ。
「こんな、……こんな気持ち、絶対わかんねぇよ、ひびきには……。俺なんか、…………」
 武はやがてまた目を伏せると、唇を戦慄かせながら続けた。
「ひびきに、逢わなきゃ良かった」
 糸の切れた操り人形のように力なく座り込んだ武の姿を見下ろしながら、返す言葉を探す。
 でも、見つからない。
「やっぱり俺は、ひびきに相応しくなかった」
 深い、低いところから響いてくる武の声。
 俺は、ゆっくり唇を開いた。
「……それが、武の望むことなのか? それで、武が幸せになるのか?」
 紡ぎ出した声は自分でもぞっとするほど冷たかった。
「そうじゃないよ。俺は幸せになるべきじゃないんだ。……少なくとも、こういう形では」
 返ってきた武の言葉も冷静だった。
 自分の人生を殺して生きてきた、十八歳の少年の声とは思えないほど冷たい声。
「何を勘違いしてるんだ?」
 俺はそう言うと、俺の顔を無気力に仰いだ武に歩み寄ってその体を引き起こした。
「お前が何したって言うんだ。どうしてお前が惨めにならなくちゃならない? 罪悪感のようなものを、どうしてお前が背負って生きる必要があるんだ? お前が借金を返すためにしてきた仕事のことなら、お前の方が被害者なんだ。お前が罰を受けるようなことじゃない。今度はお前が幸せになる番だろう」
 俺の腕で乱暴に地面から引き上げられた武は、膝を弛ませたまま俺の言葉を鼻で笑った。
「判ってねぇな」
 武の、形の良い唇が卑屈に笑む。
「ひびきがいなければ俺は、自分の惨めさに気付くことも、罪悪感を背負うこともなかったんだ」
 武の双眸が俺を睨むように見上げた。ギラリと妖しく光って、俺を突き刺す。
「――…………」
 俺は大きく息を吸って、一旦目を伏せた。
「そうか」
 俺がそう答えた時、武がどんな表情をしたのか、俺には見えなかった。
 ただ、俺が掴んだ武の腕がピクリと震えたのは判った。
「……だからって、俺がお前を離すと思うな」
 再び武に視線を遣って、斜に構えた武の身を抱き寄せる。
「俺の望むようにするんじゃないのか?」
 抱き寄せようとする俺から身を引いて、武が喚くように言う。
「知ったことか! もう……知らねぇよそんなこと」
 足掻こうとする武の肩を力強く抱きしめる。そうする以外、俺の為す術はなくて。
 武が死に物狂いで俺の腕から逃げ出そうとすれば、俺の両腕が折れても良いと思えるほど、俺は必死で武を抱きしめた。
「…………愛してるんだって、言っただろう」
 祈るように、呟く。
 武は何も言い返してこなかった。
「武が俺のことをどういう意味で『好き』なのかによって、俺の答えも変えるなんて、あんなのは嘘だ」
 その時はそう思った。
 でも本当はそんなんじゃない。
 武が俺の腕の中に安穏としているから、俺も甘えてあんなことを言ったけど、本当はそんな奇麗事じゃない。
 武を失いたくない。
 押し付けがましい愛情に武がうんざりしているのなら、その時は俺も考える。でも今はその時じゃない。
「……っ、愛してるんだよ」
 ぎゅう、ともっと力を篭めて抱きしめる。
 愛していると口に出すだけで、泣き出してしまいそうだ。
 どうしてもどうしてもどうしても、武をなくしたくない。傍にいて欲しい。
「お前を、憎むぞ」
 俺の腕の中でくぐもった声を上げて、武が呟いた。
「ひびきが俺といる限り、俺はひびきを憎み続けてやる」
「いいよ」
 俺が答えると、武の背中が震え上がった。
「俺のおかげで生きていられるのに、変わりはないだろ?」
 殺してやるという目的の対象だった母親を失っても、俺のために生きていられる。武はそう言ったじゃないか。
「ひびきなんか、……嫌いだ」
 絞り出すような声。
「俺は武が好きだ」
 武の髪をゆっくりと撫でてやる。相変わらず、いい匂いがした。
「嫌いだ」
「大好きだ」
 武の肩が再び、小さくしゃくり始めた。
「ひびきのせいで、俺はずっと不幸だ」
 恨み言を言う声は鼻声になった。
「でも、俺は武を失いたくない。武が必要なんだよ。武が欲しいんだ、俺のものにしたい」
 更に力を篭めて抱きしめると、今度は武の強張っていた背中が素直に引き寄せられてきた。
「どうして、ひびきに俺が、必要なんだよ……そんな訳、ない」
 きっと今、武の顔は涙でぐちょぐちょなんだろう。
 俺はその顔を自分の肩に押し付けて隠してあげた。こうしていれば、俺の体温で武の涙も少しは早く乾くだろう。
「必要だよ。もう、武がいなかったら俺は生きていけない。俺だって武に逢わなければ良かった。そうすれば、こんな気持ちを知らずに済んだんだ」
 ぎゅう、と武の手が俺の背中を握り締めた。
「……『こんな気持ち』?」
「そう。もう俺の目の前から消えようとなんてするな。あんな風に突然走り出すのも禁止。俺の手の届かないところに行く時は、俺に言ってからにしてくれ。そうでないと俺は、不安で髪の毛一本一本までもが痺れるくらい、怖いんだ。武がいなくなってしまうんじゃないかって」
 だって俺はもう、あんな風に毎日覚悟していた頃と違う。
 武は俺のところに帰ってくるんだって、安心してしまったから。
「…………仕方、ないな」
 武が、鼻を啜りながら笑った。
「老い先短いオッサンの我侭に付き合ってやるよ」
 でも俺の背中にしがみ付いた手は暫く解けそうにない。それでいい。ガードレールの上を走る車輪の音に、武の声が掻き消されてしまわないように、俺は武の髪に耳を押し付けた。
「……その代わり、もう絶対に今日みたいなのは嫌だ。……もう、嫌だ」
 俺だって本当は幸せなほうが良い、と武は小さい声で言った。