天使の幸福(5)

「おぉ、やっと来た。キョー」
 店の奥の座敷から半分身を乗り出して、手を振っている坂下の姿が見えた。
「遅くなった」
 そう言いながら他の客の背後をすり抜けて座敷に向かい、着くなり靴を脱いで上がろうとすると、いつも馬鹿のように騒がしいメンバーがみんな、呆気にとられて黙り込んだ。
「…………、あぁ」
 そうだった。今更のように気付いた俺が慌てて紹介しようとすると、
「お邪魔します、訳あって今ひび、――えぇと沢村さんに、寝床を借りている藤井と言います。初めまして」
 落ち着いた口調でにこやかに、武は言った。
 いつもの生意気さはないし、かといって今まで見てきた様なよそゆき風の妖艶さもない。絵に描いたような好青年風で、だけどそんじょそこらの爽やかさじゃない、今をときめくアイドルも真っ青ってな感じだ。改めて武の新しい一面を見た様な気がした。
 一緒に住んでいることなんて言わなくても良いのに、と思ったが、隠していても仕方がない。
「いいよ、ひびきで」
 だったら変なところで他人行儀にする必要もない。
 俺が、この面子の飲み会につれてくるほどと言うんだから、それくらい気の置けない仲の良いヤツ、――ということなんだから。普通は、大抵恋人が出来たら連れてくる場になりつつあるんだけど。さすがにそこまでは、あえて言うことでもない、かな。
 お行儀良くしている武の肩を解すように俺が叩いて、座敷に上がろうと促すと武はにっこりと、――久しぶりに息が止まるかと思うくらい美しく、微笑んだ。
 武の造作の整った顔なんて毎朝毎晩見飽きたように眺めている俺ですら見惚れるその笑顔に、いつもの酒飲みメンバーは全く言葉を失って、誰かが息を飲む音すら聞こえてきそうなくらい、静まり返った。
「……やっぱり俺、来ちゃ拙かったかな?」
 静止状態に陥った場を見回しながら武が頭を掻くと、ビールの瓶を手にした神月がぴくりと動いた。
「あ」
 我に返ったように、声を絞り出す。
「いや、そんなことないよ。歓迎だ。まァまァ座って、……響も」
 付け足しみたいに言われた俺は、坂下の隣に腰を下ろした。
 腰を落ち着かせてから武の姿に目を遣ると、少し困ったようにきょろきょろとしている。何だ、俺の隣に座れば良いのにと声をかけようとした時、森川が武に声を掛けて席を作ってあげていた。
 ……なんだ。
「なぁなぁ、あの藤井っての、何なの? モデルとか?」
 坂下が声を潜めて俺の脇腹を突付く。
「さぁ、……」
 モデルか、……武なら出来るのかもしれない。とはいえ武は、あまり人目に付く仕事をしたくないと言い出しそうだけど。やはり、以前の客の目もあるから。
「さぁってお前、友達なんだろ?」
 武を見ると、数人で頭を突き合わせるようにメニューを覗き込んで、注文をしていた。
 何を話しているのか、時々笑みを交えながら。
「ところで坂下、彼女紹介してくれよ」
 俺は武から目を逸らして坂下を突付き返した。
 ああ、と途端にしまりのない表情になった坂下は反対隣の女の子を紹介してくれた。
 なかなかに可愛い女の子だったけど、坂下の幸せトークはあまり、頭に入ってこなかった。

「悪い、俺ちょっと便所」
 何時間経ったのか、みんなにも大分酒が回ってきた頃、俺は席を立ち上がった。
 何だか久々に悪酔いしそうな雰囲気で、そうなる前に吐いちまおうかなとも思った。
 席についてから一度も、武と話していない。
 もう酒の席での主役は坂下やその彼女より、武になっている。
 当たり前だ。武は冗談かと思うくらい見た目がいいだけじゃなくて、臨機応変な社交性も持ち合わせているんだから。誰とでもそつなく楽しく話が出来るし、武と一緒にいるだけで、誰もが少し、誇らしい気持ちになる。
 だけどそんな武が本当はどんなことをどんな風に考える、どんな人なのかを知っているのは、俺だけだ。
 ――嫉妬?
 そんなんで悪酔いするようじゃ俺も、まだまだ若いのかもな。
「ひびき」
 トイレに入った俺の背中を呼び止める声。
「大丈夫?」
「何だ、心配してくれたのか」
 俺の後を慌てて追いかけてきたのだろう、武が駆け寄ってきた。そんなに具合が悪そうに見えたんだろうか?
「ううん」
 小便器が二つと個室が一つ、それだけで一杯になる様な狭いトイレの中で武は、俺に抱きつきたいという素振りをして見せた。
「だって全然喋れないから」
 俺の頬には自然に笑みが浮かんだ。ゲンキンなヤツだな、俺って。
「別に、家に帰ればいくらだって喋れるだろ」
 額に小さくキスを落としてやろうとすると、首に腕を巻きつかれる。ぎゅう、といつものように抱きしめてくる。
 おいおい、さすがにここでそれはやばいだろ。
「お前、今日やけに愛想いいな」
 頭をぽんぽんと撫でて放そうとすると、
「……ねえ、ひびきを好きな女って、どれ?」
 久しぶりに聞く、武の低い声。
 地を這う様な、暗い光を湛えた。
「武」
 その問いに答えてやるのは構わないけど、聞いてどうするんだ?
 俺が言葉を続けようとした時、他の酔っ払い客がトイレの扉を開けて、俺たちは離れた。
「……武、」
 武はそれきりくるりと背を向けて、座敷に戻って行ってしまった。

 武に遅れて俺が座敷に戻った時には、席では笑い声が起こっていて、武はその中心で困ったように笑っていた。
「あははは、響、お前フジイと一緒に住んでんだろ?」
 ベロンベロンに酔っ払った斉藤が、呂律の回らない口調で言う。首にだらしなく引かれたネクタイを頭にでも巻いたら、その辺の昭和のおじさんとかわりゃしない。
「やっぱあれか、ベッドは一つ枕は二つってヤツか」
「ああ、イエス・ノー枕?」
 隣から合いの手が入ると、斉藤は木製の机をバシバシと叩いてそうそうそれそれと笑った。
 公務員になったと聞いていたけど、斉藤のノリはもはや40代以上のものに成り果ててるな。
「……何の話だ?」
 俺は大きく首を竦めて、近くの神月に状況を尋ねた。
「フジイとお前はホモなんじゃないの、って話」
 日本酒を呷りながら神月が、やはり斉藤の酒癖に辟易したように言った。
「全く、これだからなぁ……知らないんですか、ルームシェア」
 武も顔を顰めながら笑っている。その傍で、森川も。何がそんなにおかしいんだか、愉快そうに声を上げて笑っていた。
「どうにかしてくんない? ひびき」
 武がそんなからかいをどんな風に思っているのか、俺には判らない。でも、武が良いと思うならそれで良い。
「酔っ払いは相手にするなよ」
 俺は手を振って呆れたように言った。
「何だ、サイトーさん酔ってるんですか? まだまだですよー、ビールしか飲んでないじゃないですか」
 武はそう言って笑い、斉藤のコップに日本酒を注いだ。
 実際のところ、この手の「オヤジ」――あえてそう言わせてもらおう、斉藤、ゴメン――の扱いなら、武はお手の物なんじゃないだろうかと思える。
「酔ってねぇよー、だって響が知里ちゃんと別れたのって、フジイのせいだろ?」
 ぴくん、と、武の笑顔が一瞬強張ったような気がした。
「何言ってんだバカ、お前も女できねえから寂しいんだろ?」
 それに引き換え坂下この野郎、と俺が話を逸らそうとすると、斉藤がのぼせた様な表情でごろんと身を横たえた。
「そーなんだよフジイちゃーん。響だけじゃなくて俺のことも構ってくれよう」
 狭い座敷で、斉藤の頭が武の膝の上に転がる。
 きゃあ、と数少ない女子陣の甲高い笑い声が響く。
 斉藤の手が、武の腿を、撫でた。
「さわるんじゃねぇっ!」
 瞬間、武が叫んだ。
 時が止まる。
 斉藤は驚いたように跳ね起きて、武の顔を仰いだ。グラスを傾けていた神月も、笑っていた森川たちも、目を瞠って武を凝視した。
「――……っ、ごめん!」
 武は、次の瞬間には立ち上がって店を転げるように飛び出てしまった。
「武!」
 弾かれたように、反射的に俺の体も動いていた。
 武の後を追うように。