天使の幸福(4)
ねだられるまま――というのは嘘で、俺だって欲しかったんだが、ああ言ってしまった手前表面上は武に誘惑されるまま――朝っぱらから武の全身を開き、武が嫌と言うまで足の指の股の間まで舐め啜るような行為をした。
武は朝食を食べに行くことも出来ないほど疲労しているのだと言った癖に、俺が腰の上に抱き上げると箍を失ったように涎を漏らしながら積極的に腰を使い、俺を貪った。
気がついたら俺は武と一緒に果てたままベッドに沈んで、電話が鳴るまで眠りこけてしまっていた。
「ひびき、……電話」
傍らで髪を乱れさせたまま、しどけない格好で俺と同様眠っていた武が呻くように言う。俺の代わりに出てくれる気はないようだ。むしろ煩いから早く出ろと言わんばかり。
俺は重い体を引き摺るように無理やり起こし、コードレス電話を取った。端からベッドの近くに置いておけば良かったのだが。
「……はい」
通話ボタンを押し、名乗りを上げようとするよりも前に電話口がビリビリと震えるような陽気な声が聞こえた。
『響いつまで寝てんだよー、良いご身分だなあ? ヒトが係長の目ェ盗んで電話してやってんだ、早く出ろよなー』
相手の名前を聞くまでもない。大学時代の悪友、神月だった。相変わらず口は悪いが、憎めない笑い顔が容易に想像できる。
「お仕事お疲れ様です」
態と寝ぼけた声で返しながら、ベッドに戻る。端に腰を下ろすと、武が背後で上体を引き起こしたのが判った。神月の大きな声は電話口からも漏れているだろう。
『よう、その調子じゃまだ女もつくらねえでプリーターやってんだろ?』
プリーター、とはプータローとフリーターの混血児らしい。大きなお世話だ。
『また飲み会の日取り決まったからさ、来いよ』
どうせ暇だろ、と神月は快活に笑う。失敬な奴だ。……と言い返せない現状にはあるけど。
「何だよ、今回はやけに早いな」
この間飲んだばっかりなのに。訊ねると、背後から武が擦り寄ってきていた。俺の腰に手を回して、背中に頬を摺り寄せている。寒くなってきたのか?
『おう、何かよー、坂下の野郎が出っ歯の分際で彼女作りやがってよ。見せやがれってわけですよ』
斉藤だろ、とそんなことを言い出す首謀者の名前を指摘すると神月はビンゴ、と間を置かずに答えて大声で笑った。上司の眼を盗んでいる割には声がでかい。
俺も昔、知里と付き合い始めた頃は見せろ見せろ、とせっつかれて飲み会に連れて行ったことがあった。友達の友達はみな友達、友達の彼女はむしろ家族、と言ってのけるようなプライベートも糞もない友人関係はやたらと居心地が良くて、知里は躊躇ったものの俺は無理やりのように連れて行ったんだった。
「あ、……そうだ」
俺の背中から体温を感じ取ろうとするようにぴたりと寄り添っている武に首を捻り、見下ろすと俺はその髪を空いた手で梳いた。武の汗か俺の汗か、或いはどちらかの精液か、濡れた武の髪が俺の指に絡みついてはすり抜けて行く。
「俺も一人、ツレがいるから人数調整よろしく」
額の髪を剥がしてやると、武が顔を上げた。丸い瞳で俺を仰ぎ、無防備な表情を向けている。透き通ったその光を見ていると、さっきまであんなに淫乱に乱れていた人物と同じとは思えない。
『何だ、まーた新しい恋人か? モテるなぁキョーちゃーん』
「あー、せいぜい期待しとけって、男のツレで良かったらな」
俺は辛うじて神月の言葉をかわし、首を傾いでいる武の頬を掌で包むように撫でた。涎で濡れた頬がしっとりと吸い付いてくる。
神月は電話の向こうで、何だ男か、と言いかけたが、どうやら係長が戻ってきたらしく、日時だけを慌しく告げて通話を切った。
「15日の19時から。飲み会、行くか?」
電話を下ろした俺の背中を這い上がってくる武に尋ねると、俺は武の頬の手を放した。濡れた掌を舐めて、武の唾液の跡を味わう。それを見て武は、双眸を細めた。
「行って良いの? あれだろ、大学時代の、トモダチ」
自分の掌を舐めて見せた俺に嫉妬でもするかのように、武が首を伸ばして俺の唇に吸い付いてきた。ふわりと柔らかく啄ばんで、目蓋を落とす。
「……行く」
次の瞬間にはそう答えて、天使も顔負けというほど美しく微笑む。
俺はそれに気圧されたように、一瞬呼吸も忘れ、武にキスをされた。
本当は俺からキスをするつもりだったのに、あんなふうに微笑まれてしまっては俺なんて、何も出来やしない。武は無自覚なんだろうが、かつてはセールスポイントにもしていたのだろう、そして商品としてのそれよりも自然で、心から滲み出るような優しい、暖かい、美しい笑顔を安易に振りまかれては、困る。容易に武に触れることが出来なくなる。誰も、太陽に近付くことが出来ないのと同じように。
「ん、……っふ、ン・ひび、き」
思わず武の舌を貪り取り、ねちねちと音を立てては舐め転がしていた俺に、武が首を竦めた。我に返って顔を引くと、武は俺に何か促すように、首を傾いだ。
「何?」
ばつの悪い思いで俺が尋ね返すと、武は蠱惑的に口角を上げ、悪戯っぽく微笑んだ。
「決まってるだろ? こういう時」
ほら、と両腕を広げて俺を誘い込みながら、出会った時と変わらない、挑発的な視線を向ける。
「"好き"か?」
「当たり」
どっちが年上なんだか、武は俺が正解を導き出したのを褒めるように頭を撫でて、頬に口付けを落とした。
「好きだよ」
顔を傾け、間近な武の耳朶を噛むと、武がぴくんと背筋を震わせた。込み上がって来るのを抑えきれないように漏れた息が震え、甘く響く。
「ね、……ひびき」
武の顎先に唇を滑らせた俺に、武の腕が絡みついてくる。背中に掌を宛がい、控えめな力で俺を抱き寄せる。
「俺とひびきって、……恋人?」
目蓋を落としたまま、武は俺の顔色を見ずに訊いた。
電話口から漏れた神月の言葉を聞いていたのだろう。武は不安など垣間見せずに、尋ねる。
俺はその細い肩を引き寄せると、顎の下に挟む込むようにして、武の頭を首筋に預けさせた。ぴたりと上体を合わせると、互いの鼓動が感じ取れる。
「武は? 俺のことを、恋人だと思ってる?」
武の額を抑えた俺が言葉を紡ぐと、擽ったそうに武は首を竦め、顔を伏せた。
「……答えない」
俺の背中に回った武の指先が、僅かに冷えていくような感じがした。多分それは俺の気のせいなんだけど。
「だって、俺の望む通りに答えちゃうんだろ? ひびきは。だから俺は、ひびきの後に答える」
言っても、武の声は沈んだものではなかった。俺の気持ちをきちんと捉えてくれている証に思えて、俺は武の体をきつく抱きしめた。
「そうだな、……恋人っていうのは互いに恋してる人同士の関係だから、恋人、というよりは……俺は武の、愛人、かな」
我ながら臭いことを言っているという自覚はあったけど、笑いながら言うと武はおもむろに俺の首筋から顔を上げて、俺を仰いだ。
「それって、」
声のない唇が、そんな風に動く。目を丸くして、ぽかんとした表情で。
「俺は武に恋しているというより、愛しているから」
次の瞬間には武に笑い飛ばされるだろうか、そんな覚悟を決めながら付け足すと、武は眦をかっと赤らめて、一度離れた俺の胸にぎゅうと抱きついてきた。
「じゃあ俺も、ひびきの愛人」
舌っ足らずな、子供の口調で言う。泣き出しそうに鼻に掛かった声。
「おいおい、真似すんなよ」
笑うと武はムキになって、俺の肩口にぐりぐりと頭を擦り付けて来た。
「だって本当だよ! 俺だってひびきのこと、ひびきより一杯一杯、たくさん愛してるんだもん。真似じゃないもん」
このお子様は本当に19歳なのか? と聞きたくなるほどべったりと甘えた口調で武は言う。駄々を捏ねているようにも聞こえるけどその内容は、俺の劣情すらそそるくらい、……可愛い。
「でも前に武、浮気したいって言ってただろう? 恋人のほうが良いんじゃないか」
縋るような武の背中を撫でてあやしながら俺がからかうと、武はゆるゆる、と首を振って鼻を鳴らした。
「浮気なんてしないもん……浮気なんか、しない。ずっと、ひびきの傍にいるから……」
俺の耳を擽る、甘く蕩けそうな声。武の躰から立ち上る艶かしい匂いと相俟って、俺は眩暈を覚えるほどの感情の昂ぶりに息を飲んだ。
ああっ、くそ、負けだ、負け。もうタマん中は空っぽだけど、抱きたくて堪らない。武をシーツの上に乱れさせてよがり狂わせて、もう一度、俺がいないと生きていけないような躰にしてやろうか!
鼻息を荒げた俺が武の身をぐいと、ベッドに押し倒そうとした瞬間
「……な―――んてな」
べろり、と大きく舌を出して武が顔を上げた。
眸を潤ませて頬を赤くしていたとばかり思っていた俺の目に、武のしれっとした小憎たらしい表情が飛び込んでくる。
俺は、言葉をなくした。下半身を突き上げていた欲情がしおしおと音を立てて萎んでいくのが判る。
「ひびきを安心させて何が楽しいんだよ。絶対いつか浮気してやる。せいぜいやきもきしてやがれ、オッサン」
語尾を楽しげに跳ねさせた武が、俺の唖然とした顔を覗き込んでキシシと笑う。
「しばらく大人しかったから油断してたんだろ。甘くなったねえ。ひびきがその方が良い、って言うから可愛ーく可愛――くしてたけど、やっぱ俺はこっちのほうが性に合ってんじゃないかな」
けろっとして笑いながら武はベッドの上を跳ね上がり、全裸のまま一足飛びにリビングへと向かった。魂が抜けたように何も言い返せないでいる俺を残して。
畜生、と俺は心の中で何度も繰り返したが、でも、これでまた、昔に戻れる。
昔よりもっと救われていて、もっと幸せな。俺と武の関係になれるんだ。
「ひびきー、腹減ったぁ」
リビングから暢気で傲慢な声が響いた。
慌てて立ち上がった俺は武の着るものを見繕って、糞生意気な天使の後を追いかけた。