天使の幸福(3)
本当は安心したんだ。
武が自分でも気付かないほどの悲しさを発散できた相手が、俺だったってことが。
武が自分の寂しさを自覚して、それを少しでも昇華できるのが一番良かったけど、武が甘えることができた俺で、良かったって、そうも思った。
俺は武を受け止める自信があったけど、武が俺を信じてくれるか、俺を選んでくれるかは判らなかったから。
俺は武の傍にいて良いんだと、安心したんだ。
「武、メシ出来たぞ」
ベッドにしどけなく身を放り投げて眠りこけている武を揺り起こすと、意味不明の唸り声だけが返ってきた。
「おい」
薄い肩に手をかけて、無理やり引き起こそうとするが、全く自力で起きようとしない武は俺が手を滑らせると直ぐに頭からシーツに突っ込んでしまう。
「キスして…」
不機嫌そうな寝惚け声。俺はさっさと鼻先に吸い付くと、両手で肩を掴みなおして半ば抱えるように上体を引き起こした。
上掛けが滑り落ちた武の白い肌に、俺が昨晩付けたばかりの鬱血の跡が点々と残っている。自分で付けたものとは言え――だからこそ――自分に正直すぎるぞ、俺、と突っ込みたくなるくらいに、武の下肢に向かってその数は増えていた。
「ほら、さっさと起きろ。今日こそバイト探しに行くんだろ」
崩れた武の膝の内側に幾重にも重なったキスマークは、内腿の深くまで続いている。それを見るごとに、柔らかい肌を吸い上げられた武が上げる嬌声が俺の脳裏に鮮明に蘇ってくる。俺はさり気なく武の足に布団をかけてそれを隠しながら、ベッドの端に腰を下ろした。
「やだー…」
無理やり上体を引き起こされ、力なく座るような形になった武は俺の肩にしなだれかかってきた。まだ、目がピクリとも開こうとしない。
「立てなー…い。ご飯、ここで食う」
「ワガママ言うな」
ガキか、と続けようとして俺は慌てて飲み込んだ。寝起きで不機嫌絶好調な武に無駄に絡まれるのは得策じゃない。
「だってー、ひびきが」
口の中でもごもごと不明瞭な声をあげる武が、不服そうに唇を尖らせながらようやく目蓋を開くと上目で俺を見上げた。
「…昨日、いっぱいするから」
甘ったれた舌足らずな口調は、可愛い子ぶって飯を運んでもらおうって魂胆らしい。そんな子に育てた覚えはありません。
「俺のせいじゃないだろ」
言いがかりだ、と俺が大袈裟に天を仰ぐと、武は短く唸って、視線を下げた。下唇を突き出して拗ねている。
「…ひびきの、所為だもん」
微かな衣擦れの音がしたかと思うと、武の掌が俺の腰を撫でた。
「武だってしてしてって言っただろ?」
武の顔に視線を戻すと、武も俺の顔を見上げていた。寝起きの倦怠感が目許を重くしているのか、やたらと色っぽい。
「ひびきが俺に、して、って言わせるんだよ」
赤い唇が俺の視界に迫ってくる。それは俺の錯覚なのだが、一度その魅惑的な唇に魅せられてしまうと、もう、視線を逸らせない。
「…ためしに、キス、してみてよ」
悪戯っ子の色を帯びてきた声が囁く。俺は武の肩に手を掛けて、首を屈めた。薄く開いた柔らかい果実のような唇をそっと吸い上げる。強く押したら弾けてしまいそうで、そっと、優しく。
「もっと」
武の腕が俺の頭を抱いた。
今度は無防備な割れ目に舌先を忍ばせて、歯列の表面を左右になぞった。鼻腔から、武が甘い息を吐き出したのを感じる。
「もっと…」
強く引き寄せられて、俺は武の唇を貪るように舐った。武も寝起きの粘ついた舌を大きく伸ばして俺の舌の裏を獣のように舐めた。
「もっと、…ほら、もう、…また、したくなってきた。ひびきのせいだよ」
唾液の濡れた音をたてながら唇を離すと、武は熱に潤んだ眸で俺を窺いながら呟いた。確かに言葉にするまでもなく、もっともっと、と聞こえてくるかのような表情だ。
「何? それって、好きって意味?」
好きだからもっとして、って言いたくなる。好きにさせる俺の所為、という理屈か?
俺はキスだけですっかり上気した武の頬を掌で包んで、唇の端に残った唾液の糸を舐めた。
「違うよ、もっと好き」
思いがけず、武が不服そうに反論する。
もっと?
「何より『もっと』だよ」
唐突過ぎる訳の判らなさに俺が思わず笑うと、武はムキになったように俺の顔を引き寄せて噛み付くように唇を奪った。まるで仔猫にじゃれつかれている気分だ。
「判んないよ、もっと、好き。…もっと好き、ひびき」
舌を伸ばし、俺の唇をぺろぺろと舐めながら泣き言のように繰り返す武を抱きとめて、俺は慌てた。
「判った、判った、って…武」
体当たりするようにして俺に体重を掛けてくる武を諌めて肩を押し返そうとしても、まったく通用しない。ぐいぐいと俺をベッドに押さえ込もうとしながら、武は俺の口元を唾液塗れにしてきた。
「何が判ったんだよ、何も判るもんか。ひびき、…好き、好き。ガマンできないもん、…好き。好きだ」
俺の肩をベッドに押し付けて、馬乗りになった武は何度も繰り返しながら俺から呼吸を奪おうとするかのようにちゅうちゅうと子供染みたキスを続けた。
「ちょ、っ…武、メシ、冷める」
堪え切れなくなった俺が顎を逸らしながら訴えると、
「…ッ!」
容赦ない拳で、頬を思い切り殴り飛ばされた。
「ってぇ!」
クリティカルヒット。俺も油断していたとは言え、寝起きの人間とは思えないほどの良い拳だった。
武はそのまま反撃の間を与えず、俺の両手を押さえつけて唇を塞いだ。根元までずっぽりと舌を捻じ込まれて、乱暴に蹂躙される。唾液なんて啜る間も飲み下す間もないくらいに滴り落ちてきて、俺のものなのか武のものなのか判らない。
…犯される…。
そんなことを胸中で思って、一人で笑った。武に犯されるんだったら、別に何一つ不満もないけども。
「……むかついた、今の、マジで」
自分でしたキスに息苦しくなったのか、ぬるぬるに濡れた唇を離した武は息遣いも荒く、ぼやいた。
「本当のことだろ。折角作ったのに、冷めて不味くなってから食われたら悲しい」
料理人としてはさ、と付け足しても、武は笑わなかった。
「…拗ねんなよ」
俺は弱ってしまって、武の背中を抱くとベッドに寝返りを打った。あっさりと形勢逆転して武の上に覆い被さる。
「そうか、…そんなに俺のことが好きなのか? じゃあ、初めて会った頃のこと謝ってもらおうかな」
できるだけ優しい声音で、ふざけた調子で言うとやっと武は笑って、首を竦めた。
「やだよ」
相変わらずの憎たらしい声で答えながらも俺の首に両手を回して擦り寄ってくる。こうしているのが当然で、もっとも自然な距離だというように。
「…ねえ、ひびき」
と、不意に武は俺の視界から顔を隠すと低い声を紡いだ。
「ひびきにとって、俺は?」
尋ねられるまで、忘れていた。
そうだった、俺はまだ答えていないんだ。
俺の首に回された武の手は、不自然に強張っている。祈るように抱き締めることも、余裕を見せて手放してしまうことも出来ずに。
「実を言うとまだ、よく判らないんだ」
俺は素直に答えた。言葉は選んだけど、武になら、きっと俺が思うことをありのまま伝えてもきっと、判ってくれるって信じているから。
「武を幸せにしたい。武に触れたい、キスしたい。ただ、それだけで」
俺が武の背中から手を滑らせると、武がピクリと肩を震わせた。俺が武のことを離すなんてことは絶対にないのに、それでも、怯えて。
俺は掌を武の髪に移動させて、優しく撫で上げた。ようやく見えた武の表情は白く、ゆっくりと、俺の顔を見据えた。
「…好きじゃあ、ない?」
黒い眸の奥は揺らぐことすら怯えているように、微動だにしていない。俺は、硬直して素直に俺の答えを受け入れようとする武の芯の強さに感嘆しながらその額に唇を押し付けた。
「武が俺を好きなら、俺も武が好きだ。
武の言う『好き』が俺にはよく判っていないのかも知れない。友情なのか、俺といると安心するからなのか、恋という意味のそれなのか、
俺は絶対に武の味方だから、どの『好き』であったとしても、
俺は武が望むままに、好きだよ」
俺は、この曖昧な気持ちをこんなに素直に表現できるとは思っていなかった。胸の中にある内はとても複雑に思えたけど、こうして言葉にするとしっくりした。
だけど、武はそれを聞くと不意と顔を背けて睫を落とした。
「…嫌だ、そんなの」
搾り出した、泣き出しそうな声を出す。
「武」
俺はその顔を無理に振り向かせることはせずに、ただ向けられた頬に唇を付けて続けた。
「好きだ、と言うのは簡単だよ。俺は武が欲しい。出来ることならこのまま抱き締めて、誰にも見せないで俺一人で大事に大事に愛したい。
でも、もし武が俺とただの友達になりたいとか、俺をただ守ってくれている人だと思っているのであれば、俺はそれでも構わないんだよ。武がそれを望むなら。
俺は単純に、武の幸せを望んでいるだけだから」
愛も知らずにセックスだけを学んできた武に、俺は友達になりたいんじゃないお前を愛したいんだとか、俺はお前をただ守ってるんじゃない愛しいから守ってるんだとか、そんなことを言って何になるだろう?
そんな風に押し付けられるのは、武はもううんざりしてるんじゃないだろうか?
俺はただ、武が幸せならそれが一番良い。多分この世でもっとも単純な、愛の形だ。
「そんなのやっぱり、…嫌だ」
とうとう口端を歪めて泣き出した武を、俺は両腕で肩を包み込んだ。声も立てずに泣く武の声を聞き取りたくて、その肩の微かな震えも取り逃さないようにして。
その髪に唇を寄せると、俺は武に俺の気持ちを染み込ませるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「だって俺はもう幸せなんだよ。武がそんな風に俺のことで泣いたり、不安になったり、俺は武にそんなに影響を与えてるんだって知れて、それだけで充分なんだ。
しかも武が俺の『モノ』になりたいって思ってるなんて、そんなに幸せなことってないだろ?」
俺はもう既に武に幸せをもらっているから、これ以上、愛だなんて恋だなんて、そんな他愛のない言葉は必要ない。武がそれを欲しがるなら、俺はそれも幸せに感じる。どっちに転んだって、俺はもう幸せなんだ。
しかし武は俺の腕の中で狂ったように首を左右に振って、泣きじゃくる声を漏らした。
「ひびきに、無理をさせるつもりなんてないんだ。俺はひびきにそんな風に愛されて、幸せだけど、俺が、こんな俺じゃなければひびきはもっともっと、俺のことを自由に求めてくれただろう? 俺のことを気遣いながら愛してくれて、ひびきばっかり…」
震える息をしゃくりあげながら、ようやく声をあげて泣き始めた武を、俺は少し迷ってから笑い飛ばした。
「俺は確かに無理してるかもしれない。本当はものすごく愛したい。武の言う『好き』が別のスキだったらどうしよう、俺はその時ガマンしてられるのかなって、不安でもある。
だけど武はわんわん泣いてるし、ワガママも言うし、しつこくやらしくおねだりしてくるし、まったく寝かしちゃくれないし、しまいには本気で殴ってくるし、そんなに心配するほどのことじゃない」
だろ? と武の鼻先を摘むと、こくんこくん、と首が千切れんばかりに武は大きく頷いた。
「絶対、好きだ。絶対、絶対…愛してるもん。ひびきのこと、俺…」
際限なく愛の告白を続けようとする武の唇にはキリがなくて、俺はその贅沢さに苦笑しながらキスで塞き止めた。
武の真意が判らなくて、毎日不安で落ち込んでいた俺に少し分けてやりたいくらいだ。