深淵の天使(9)
もう逢うこともないと思うけど、と言って笑った知里と別れて家へと帰る。家には武ではなくて"藤井"が待ってるんだ。そう、覚悟して。
「あっ、ひびきお帰り」
俺は覚悟していた。――玄関を開くなり、出鼻を挫かれるまでは。
オイオイオイ、ゲームスタートじゃないのかよ。
「大事なこと忘れてたんだけどさ、ご飯とかどうする?」
玄関まで駆けて来た武は、さすがに自分の服を着ている。
「ああ、……別に、お前自分で作れば?」
俺はわざと何でもないことのように言った。
「作ってくんないのぉ?!」
思った通り、悲鳴染みた情けない声が返ってくる。
「当番制にするか」
不満げな武の横を通り過ぎて、リビングに入る。部屋は綺麗に片付いていた。
「俺ご飯なんか作ったことないよ」
背中を慌てて追ってきた武の声は甘えている。
「そりゃ、やってみなきゃ覚えないさ」
ソファに腰を下ろしながら俺が大仰に笑い声を上げると、武は不貞腐れたように眉を潜めて、もういい、とそっぽ向いた。もう良いって、どうするつもりなんだか。
俺は石の様な米を食わされるのを覚悟しながら武の横顔をちらと窺った。
「……うまく、別れられた?」
顔を背けたまま、俺の方を見ようとしない武が唇を小さく動かして呟くように言う。
「ああ、もう既に別れているのと同じだったし、言葉をつけてやればいいだけどのことだ」
知里は笑っていた。無理に笑っていたのだとしても、無理にでも笑っていられるようになったんだから、もう大丈夫だ。
「……そっか」
一つ、息を吐いた武がソファの背凭れ越しに俺の首に擦り寄ってきた。
「おい」
約束が違うだろ、いきなりルール違反か?
「最後最後」
明るい声で言いながら、武は俺の首筋に回した腕をぎゅっと強めた。
愛しさが、突き上げてくる。
「最後なんて言うな、ゲームスタート、だろ?」
これは終わりじゃなくて、始まりの筈だ。
「うん……」
俺の肩口に顔を埋めた武の声が暗くなった。
白紙に戻そうなんて言ったこと、後悔してるのか? 俺は武の頭から視線を外して、腕だけを上げると黙って髪を撫でた。
「ひびき」
髪を撫でられる手を擽ったそうにしながら、武が顔を上げる。
「最後に、キスしようよ」
キスならいいよね? と武は首を伸ばして俺の顔を覗き込んできた。
「最後って言うな、って」
俺の話を聞いているのか聞いていないのか、武は元気よくうん、と返事をして、俺の頬に唇を押し付けてきた。
背後の武に向き直るように俺も体の向きを変えると、武はぴたりと目蓋を落として濡れた舌を覗かせ、縋るように口付けを求めた。
武の頭を抱き、その赤い唇を貪る。武は息をしゃくりあげるようにしながら苦しげに、だけど決して自分から求めることは止めないでしきりに俺の唾液を嚥下した。
「――……じゃあこれから改めて、よろしくね。
沢村くん」
ようやく離れた唇を名残惜しそうに見つめていた武が、ぎこちない笑みを浮かべて顔を上げる。
「よろしく、藤井」
俺は、右手を差し出して"藤井"と握手をした。
かくしてゲームはスタートした。
俺と"藤井"はただの友達で、藤井は就職し損ねてフリーターをしているのだが、二人で暮らした方が生活費が楽だから、という理由で一緒に暮らし始めた……という設定だ。
目に見えて変わったのはまず、呼び名。それから優先順位。
俺は、そして武も、今までいかに相手のことを特別扱いしていたのか、思い知ることになった。
俺が意識して他の友人と同じような扱いをすると、武は時折不安そうな顔をした。俺はそんな時どうして良いのか判らなくなる。
俺が困っているのを察すると武はすぐに憎まれ口を叩くが、きっと、これは俺の推測に過ぎないけど、武は今まで他人と普通の付き合いをしてきたことがなかったんだろう。
十六歳で借金抱えて学校へ通えなくなり、体を壊すまで働いて、その後は躰を売るような仕事をして――きっと信頼できる普通の友達なんていなかったんじゃないだろうか。
俺が武としばらく暮らしていても、武の口から他人の話を聞いたことなんてない。それだけで断言するのも失礼かもしれないけど。
俺達は指先ですら触れ合うことを避けた。
仲良くし過ぎてしまったり、それに気付いて急に他人行儀になったり、こんなに相手を意識しすぎた友人関係なんて実際にはない。俺はそんなことを時々思っては、一人で笑った。
だけどこんな風に出来損ないの友人関係を続けることで、改めて相手のことや、そして自分の気持ちを見つめなおすことが出来そうだ。
「俺、今日返り遅くなる」
朝食中に俺が思い出して言うと、弾かれたように武が顔を上げた。
「ああ、……そう」
今日は珍しく二人の休みが重なって、きっとトモダチじゃない、前の関係のままだったら一日中二人で部屋の中、ベッドの中でゴロゴロし続けていたんだろう。
武だってきっと、今、わがままを言って見せたはずだ。以前のままの関係だったら。
「大学の頃の友達と飲み会でさ」
武は、皿の上に伏せたフォークに視線を伏せてうん、と相槌を打つ。
その伏せた睫が寂しそうで、俺はまた、困ってしまう。
逡巡した後、俺はこのゲームの審判がいるわけでもないのに、さりげなく武に身を寄せると、そっぽを向いたまま小声で
「ゲームクリアしたら、今度一緒に呑みに行こう。けっこう頻繁に会ってるんだ、大学の奴らと」
内緒話をするように囁くと、武は俺のわざとらしい様子にぶっと噴き出した。大きく口を開けて笑う。
「うん」
無邪気な笑顔。今すぐにでもこのゲームが終わってくれたら、その頬を撫でて、抱き締めてしまいそうなくらい。
……いつ終わるんだろうな、このゲームは。
終わる条件は判っているけど、それがいつまでかかるのか俺には判らない。半年先なのか、明日なのか、それとも六年先なのかも。