深淵の天使(8)

 武って人間は本当はどういう奴なのか、やっぱりあれは演技の内の一つだったんじゃないかと思わせられるほど、その後の武はあっけらかんとしていた。
 無理にそうしているのか、割り切るのが得意なのか、全てが本音なのか、全てが嘘なのか、俺には見当もつかない。希望的観測ならいくらだって出来るけど、どこか、不安とはまた違う不安定さがあって、だけど多分そこが、武に惹かれる要因の一つなのかも知れない。

「ねえ、ひびき。セックスは?」
 知里は今デパートに勤めているらしくて、次に休みが取れるのが四日後なのだと言った。
 俺と武はその四日間の猶予の内に関係を白紙に戻す計画を立てていた。
「セックスはしちゃ駄目じゃないか?」
 関係を元に戻そう、と言った武は、借金のこともなかったことにしよう、と付け足した。
 俺は武にとってそれが本来の目的だと気付かない振りをして、それはもう終わったことだし、確かにこれからの俺達には関係ないよなと頷いた。
 すると武は、じゃあ俺達はどうして出会ったんだ? と言い出した。
 何のために一緒に住んでいるのか、きっかけは何だったのか、そんな架空の設定をし始めた。
 それは俺達の住む現実とそう遠く離れたようなものではなかったけれど、そんな"設定"をしたところでそれは嘘だって判っていて、忘れようと言ったことだってお互いそれを禁句と決めただけで、本当に忘れてしまえるわけではないのに。
 俺は武が、本当にそういうことを判っていないんじゃないかと疑ってみたりもしたけれど、そうではないみたいで、単純に"設定"を作ることを楽しんでいるようだった。
「やっぱ駄目かー……」
 武は手元のメモ帳にセックスはNGと記した。
 要はゲームなのだ。
 知里との関係を終わりにする日がゲームスタート。作り物の設定でルールに従って生活をして、恋をするまでのゲーム。
 きっと武か俺のどちらかが、あの日のあの言葉の続きを言えたら、また元の時間にやっと接続できるんだろう。
「あー……俺きっと溜まっちゃうなぁ」
 パスタを頬張っていた武が椅子の上で大きく伸びをした。
「大人しく溜めとけよ。新しい俺とお前はバイト先で知り合った気の合うオトモダチなんだから、一緒のベッドで寝るでもなきゃ、キスもしないんだからな」
 正直言えば俺だって自信がない。武と一緒にいて、べたべたくっつくことに慣れていたから。
「……ねえ、最後にめちゃくちゃやりまくんない?」
 背凭れに反らしていた身を丸め、テーブルに身を乗り出すと武は誘惑の眼差しで俺を見た。
「アホか」
 いったい何のための白紙なんだか。
「だって俺オナニーとかやったことないもんー。絶対ガマンできないよ。バイト友達の沢村くんのこと突然押し倒したりしたら、やっぱ駄目?」
 言ってる本人も殆ど冗談なんだろう。
「ダメ。沢村くんきっとホモとは一緒に暮らせないよ」
 大体セックスなんて飽きて吐き気がするくらいだって言ったのはお前じゃないか、……と言ってしまったら元も子もないんだろうな。
 それでもしたいんだと言われてそれが何故かと突き詰めていけば、白紙ゲームはスタートする前にクリアしてしまう。
 ……多分そういうことなんだろう。
 俺より上手い奴なんかたくさんいるけど、俺のセックスが好きだって言ってくれてたんだから。
「なぁなぁなぁ、沢村くん」
 まだぎこちない呼び方。でも、武はそれ自体を楽しむようにして頬を綻ばせた。
「仲良くしてね」
 はにかむような笑顔。武は、笑い声を弾ませながらくすぐったそうに首を竦めた。


 急に沢村くんだの藤井だのと他人行儀になった俺達を、店長は最初、何かあったのかと驚いた。喧嘩でもしたのかと俺にこっそり聞いてくるくらいだったが、険悪なムード一つない俺達を見ている内に、これはなにかしらの遊びなんだと気付いたらしく、呆れたように笑った。
 武――藤井は仕事の覚えも早く、ますます店長のお気に入りになった。
 藤井がレジに立つようになると客の入りは増え、しかし女は苦手だと公言している彼は女子高生や美人OL、魅惑的な人妻がこぞってモーションをかけてきても心乱すことがなかった。
 店員として必要な愛想以外を振り撒くことはなく、時折、厨房の俺と目が合うと苦笑するのだった。


「久しぶり」
 知里と逢うことへの不安はなかった。
 知里と別れることは、藤井という新しいトモダチとのゲームスタート。そう思えたから。
「……響」
 来てくれたんだ、と知里は言って、笑顔を噛み殺すような表情を見せた。
「この間は悪かったな、……本当に」
 知里と向き合った席に着いてコーヒーを注文する。知里の前にはまだ湯気を立てている紅茶があった。
「ううん、突然だったから……ごめんね」
 無理して笑っているような、ぎこちない口元。
 彼女に悪気がないのは判っている。きっと、俺に怯えているんだ。逢わなくなる少し前の俺は、知里のことを、それは冷たくあしらったから。
「髪、伸びたな」
 知里は、喫茶店のテーブルに伏せていた視線を一瞬上げて俺を見た。肩の下で緩くカールしている自分の髪に触れる。また、すぐに視線を落とした。
「…………ごめんな、今まで何の連絡もしないで」
 心の底から言って、頭を下げると知里は短く、しかししっかりを首を左右に振った。
「今まで、どうしてた」
 俺の問いには沈黙だけが返ってきた。
 薫り高いコーヒーが俺の前に運ばれてきて、伝票がテーブルの上に一枚増えた。
「……響は? どうしてた? …………新しい恋人、出来た?」
 恋人。
 その言葉に、今度は俺が黙り込む番だった。
「できたでしょう? ……なんかそんな感じ、するもん。響、変わったね」
 知らずコーヒーの水面を見つめていた俺が、知里の言葉に驚いて顔を上げると、知里も俺を見ていた。その表情には優しい表情が浮かんでいる。
「ごめんね、逢いたいなんて言って。ちゃんと、話をしようと思ったから……」
 俺を安心させようとする笑顔。知里がテーブルに隅で握った拳が、小刻みに震えていた。
「知里も、強くなったな」
 そんなの女性に対する褒め言葉じゃないことを判っていて、俺は、だけど知里に言わずにはいられなかった。本当に強くなったと思った。俺が強くさせてしまったんだ。彼女を守りきれなかったから。
「あたしだって、響に負けてられないからね」
 強くなって、もっといい男捕まえないと。そう言って、知里は笑った。