深淵の天使(7)

 武にあんなことを言ったのを、俺は家を飛び出して数メートルで早くも後悔していた。
 原因の一つは、俺があんなことを偉そうに言えるような人間ではないから。
 武がどんな思いで、どうしてあんなことを言ったのかも考えないで、もっと他にいくらでも言い方があったのに、瞬間的に武が鬱陶しく感じてしまった。
 武の女嫌いを俺に押し付けるな、なんて、武の何年もの苦労を、何百回とあった夜の苦痛を、俺は何も知らないのに。女が嫌いとはいえ、見ず知らずの男に躰を売るなんてことがどんなに屈辱的か、想像すら出来ない俺が、母親という一番最初の女性に対して憎しみを抱いた武の暗い過去を判ってもやれないのに。
『この借金はとっとと返しちゃいたいんだ。ずっと、昔の俺を引き摺っているような気がしてたから』――そう言った武の深淵を覗くことすらかなわない俺が、あんなに偉そうに、あんなに突き放すような言い方をしなくてもよかったのに。
 原因のもう一つは、あんなに、鬱陶しくなるようなことを言われても、確かに武のやったことは悪いことだと思っても、それでもやっぱり俺は武のことが好きだと思ったから。
 今、武は俺の部屋で、一人取り残されたベッドの上で、どうしてるんだろう? どんな気持ちで?
 考えれば考えるほど、俺は家から遠ざかる歩調を緩めた。
 しまいには止まって、……引き返した。


「武!」
 転げるようにして寝室に飛び込むと、背後の窓から差し込む光で表情を影にした武がいた。俺が飛び出て行った時の格好のまま、微動だにしていないように見えた。
「ああ、……良かった」
 俺はそう呟くなり急激な安堵に襲われて、その場に座り込んだ。この部屋を、家を出て行って、もうどこにもいなくなっているかと思った。
「ひびき……? どうしたの? チサトは?」
 か細い鼻声。俺は床を這うようにしてベッドに辿り着くと、武の顔を覗き込んだ。
「泣いてんじゃねぇよ馬鹿、そんなの武じゃないだろう」
 局地的な大雨でもあったのかというくらいびしょびしょに泣き濡れた武の顔が、力なく笑う。
「いいよ、知里にはすぐ電話かけて、別の日に約束しなおすから」
 ベッドに凭れかかった俺に、武は鼻を啜ってから
「……結局、逢うのか」
 と小さい声で我侭を言った。
「そりゃ、逢うよ。今日の詫びもしたいし」
 意地悪く言って武の顔を窺うと、珍しくしおらしくなった武は重そうに濡れた睫を伏せて黙り込んだ。
「それに、向こうとちゃんと別れておかないと、武も心置きなく浮気できないだろう?」
 浮気は、恋人がいないと成立しないからな。そう言って俺が笑うと、武の頬も心なしか緩んだようだった。
「じゃあ、さっきの続きはその後で、……か」
 だけど表情の変化とは裏腹に、武の声は沈んでいた。
「ああ、そうか……でも俺はもう言っちゃったなぁ、武のことを何度も好きだ、って」
 こういう場合浮気になるのか、と俺が武の気を紛らわせようとするように言うと、武の頬は再び緊張したように引き攣った。唇を震わせるように一瞬、結んで、掠れた声で呟く。
「……けど、考え直させてくれ、って」
 武の顎先から、思い出したように涙の雫が一粒落ちた。
 武が握り締めた掛け布団はいくつも染みが出来ていた。拭うこともしないで、声も立てず、一人で泣いていたんだろう。
 それ撤回、と反射的に言い出しそうになった俺は慌ててその言葉を飲み込んだ。いかにも格好悪すぎる。
「……武、あのな」
 うまい言い訳でも、もうこの際みっともなくても良いから、何て言ったら良いんだろう。確かに武は悪かったけど、俺も悪かった。拙い言葉でそう言いかけた時、不意に武が視線を上げた。赤い目。まだ濡れているその眼差しは、しかししっかりと強い光を孕んでいた。
「全部……」
 ともすれば聞き逃してしまいそうな小さい声。
「全部、一回白紙に戻そう」
 布団を握り締めて言った武の指先が白く、震えている。寒さに凍えてでもいるのかというほど、全身が小刻みに震えていた。
 抱きしめたい
「そうしよう」
 だけど、祈るような武の言葉に縋りつかれて、俺は、武の手も握らずに黙って頷いた。
 多分それが一番良かった。俺はもっとたくさん、武を愛せる。そういう自信があったから。
 俺の返事を受けた武は顔を上げると、血の気をなくしたままの顔を綻ばせて満足そうに、にっこりと笑った。