深淵の天使(6)

「……ひびき、電話」
 俺の首にきつく絡みついていた武の腕の力が弱くなった。
「続きは?」
 俺が鼻先にキスをして促すと、世にも美しい武の顔が微笑んだ。優しく、愛しく。
「あとで」
 良い答えを期待していいんだろうか? 口に出して尋ねようとした俺に、武は黙って頬を短く吸った。
 電話のベルは途切れる気配がない。きっと寝る前に留守電を入れ忘れたんだろう。だから武も、そのせいで一度起きてしまったんだ。
 しょうがねぇな、とベッドから身を起こし、電話を取りに行く。寝起きの声を必要以上に露にさせながら名乗ると、電話の向こうからは人々の喧騒が聞こえた。
『もしもし、……あの、あたし』
 携帯電話からかけてきたんだろう声の主は、知里だった。
 喉まで出かかった名前を、飲み込む。背後でベットに転がったままの武を振り返ると、背を向けていた。
『あ、……あの』
 何か言い淀む知里の声は暗かった。さっきも電話かけてきたんじゃないのか?
『あたし、……時間、間違えたかなぁ? 店に、10時じゃなかったっけ?』
 俺は一瞬の間を置いて、もう一度武の姿を振り返った。
 武はこっちを向かない。
「と、……っとにかく、知里、あの……ちょっと、ごめん。今、出るから」
 口早に言って通話を切った。
「武」
「いつもの店って、どこ?」
 電話を切った瞬間、武を問いただそうとした俺の言葉を遮って武は背中越しに呟いた。
「だってあの女が逢いたいって言うから」
 武は俺に背を向けたまま、ゆっくりと身を起こした。
 知里が? 俺に会いたい?
「……ひびきは?」
 どんな表情をしてるんだ、今、武は。そして、俺は?
「――『あんな風にうやむやに逢わなくなっちゃったこと、あたし、すごく後悔してるの。だから、もう一度逢いたい。あたしは今でもまだキョウが好きよ』……だってさ」
 吐き捨てるように武は知里の真似をするように猫撫で声を出した。俺は言葉を失った。
 まだ俺が好き? 俺はあんな風に知里を傷つけたのに。
「ひびきは? あの女と別れたの後悔してる? 逢いたい? まだあの女が好き?」
 俺の体は硬直してしまったように動かなかった。唇も、喉も、いうことを聞かない。呼吸すらままならない。
「……俺」
 武は深く頭を俯かせて、小さな声で続けた。
「女が嫌いなんだよ」
 しんと静まり返った室内。さっきまで満ちていた暖かな空気が、暗く、冷たくなっていくのを感じた。
「俺の人生をぶっ壊したあの三千万、俺の母親の借金なんだ」
 武の口から久しぶりに聞かされた三千万という音の響きは、俺の背筋を冷たい汗のように掠めた。
「得体の知れない男につぎこんだ金、全部俺に押し付けてとんずらしやがった。実の母親が、だぜ」
 武が、首を折ったまま前髪をかきあげた。何故だか、今、武の口元は笑っているのじゃないかという気がした。自嘲的な笑みを浮かべているんじゃないかと。
「シゴトで女を抱くこともあったけど、女の性欲なんて、ジジイの糞を見るよりも吐き気がする」
「武」
 俺は、自分が何を言おうとしているのか判っていなかったと思う。
「だけど、俺と武は違うから」
 ほとんど反射的にそう言っていた。
 ピクン、と武の背中が震えたのも現実味がなく映った。
「武が勝手に約束したっていっても、知里は武の言ったことを俺の言葉だと思ってるんだし、実際知里は待ってるんだから、行ってくるよ」
 俺はこれ以上知里を踏みにじることは出来ない。
「何だよ、自分の好きな男と赤の他人の声も聞き分けられないような女じゃねぇかよ、何が『好き』だ」
 武が声を張り上げた。その声は確かに笑っていた。侮蔑的に。
「だからって嘘を吐いて良いわけじゃないだろ」
 俺はクローゼットからジーパンとシャツを抜き出すと、音を立てて袖を通した。知らず、苛立っていたのかも知れない。
「……俺が、好きだっつっても行くのかよ」
 震えた武の声が、床を這う何かどす黒い生き物のように俺に絡みつく。
「こういう時だけそんなことを言うのか?」
 そんなのは、我侭だ。俺はその生き物を振り払った。
「俺が行くなっつっても行くのかよ!」
 叫び声にも似た武の声。
「……約束をしたのはお前だろう?」
 武が、俺の目の前で壊れていくような気がした。
 実際はきっと、俺が勝手に理想化していた武が壊れていっているだけなんだろうけど。
「試したんだよ、ひびきを。どれくらい本当に俺のことを好きなのか」
 武がこんなことをするような奴だと思わなかった、だなんて、俺の都合のいい思い込みに過ぎない。だけど、頼むからもう、止めてくれ。武。
「……行って欲しくないんだ、ひびき。俺がひびきのことをどう思ってるか、続きを聞きたいんじゃないのか? ひびき――……」
 俺は両耳を塞ぎたい気持ちを抑えて、目蓋を一度、きつく閉ざした。
「俺はそんな風に縛られたいんじゃない。愛情を試されるのも嫌いだ。
知里とはきっぱりと別れるために会ってくる。だけど、武をどう思ってるか、は考え直したい。武の俺に対する気持ちが、そういう類のものなら」
 俺は声が震えそうになるのを堪えながら慎重にそう言うと、武の姿には眼を向けないまま部屋を出た。
 室内に篭ってしまった暗いものを置き去りにしたまま。