深淵の天使(5)
寝言でも言っていたのだろうか。
武の唇から織り出されたその名前は、俺の胸を衝いた。
「ひびきの女?」
武は驚くほど無表情だった。
俺のことをこんなに好きでいてくれたのかと、俺は目を瞠った。自惚れだろうか? その無表情さは、武が傷ついていると、そう感じさせた。俺をからかうつもりならきっと、泣いてみせる筈だ。
「元、な」
俺は苦笑を噛み殺して答えた。
そう、もう別れたんだ。
自然消滅だったとは言え、一年以上も逢っていなくて連絡もしていなければ別れたのと同じだ。
今、俺の傍には武がいる。武は男だけど――やることやって、肉体だけの気持ちで付き合ってるんじゃないんだから。俺は知里を忘れて武を大事に思っているんだから。
「抱きしめて欲しいか?」
元、という俺の言葉を空ろに呟いた武に、俺は少しおどけて尋ねてみせた。
「抱きしめたいか?」
武も、自然に湧いて出たような笑みを零す。俺は武の背中を抱きしめて、寝返りを打った。
「……やきもちか」
半分冗談で、半分おっかなびっくり呟いてみた。
「そんなんじゃない」
しかしきっぱりと否定されて、少し落ち込む羽目になった。何だよチクショウ。
武は俺の胸にこつんと頭を預けると、深く息を吐いて、多分、と付け足した。珍しく真剣に答えてくれていることが判った。
「電話着たぞ」
武は俺の手を取ると自分の指を絡まて遊びながら、もののついでのように言った。
「……え?」
「今さっき」
それで起こしたのか? ……寝言じゃなかったのか。
「あの女、バカだな」
呆れたような口調の武に、俺は眉を潜めた。
武は時々他人を容赦なく見下す時があって、ひやっとさせられる。不快感の入り混じった、不安。武がとても不安定なのだと思い知らされるからだ。
「この俺の美声と、ひびきの声を間違えやがった」
そう言って、武は絡め取った俺の指をパクっと銜えた。
知里は何か言ってたか、と訊こうとして、止めた。そこまで無神経じゃない。
「あの女、ひびきのことキョウって呼ぶんだな」
武の舌先が俺の指の付け根をねっとりと舐める。背筋がぞくっとした。
「そりゃあ、……俺の名前は、キョウって言うんだからな。ひびきって呼ぶのはお前だけだ」
武は俺の指から唇を放すと、顔を上げて笑う。
「ひびきって呼ばれるの、嫌?」
前にもそんなこと訊かれたな。俺は小さく首を振った。
「嫌じゃない、別に」
武の唾液に濡らされた指先で、武の顎先を撫でる。武は仔猫のように擽ったがって、首を竦めた。
「どうして?」
武は右の耳を俺の胸に伏せて、小さく息を吐く。心なしか、欲情を秘めている。
「どうしてって、……どうして嫌じゃないかってことか? 判らないよ、そんなの……俺は、そういう質問は嫌いだ」
武が顔を上げた。
俺は、きつい言い方をしてしまったかと後悔した。嫌いじゃなくて、苦手だ、でも良かったのに。
「俺は、俺がひびきをひびきって呼ぶのが好きだよ。気に入ってる」
しかし武はにこにこと笑って質問を続けることを止めた。俺の躰を這い上がるように首を伸ばして、鼻先に小さく吸い付く。
「だって判りやすいだろ? 俺しかひびきって呼ばないんだから、ひびきがもし俺の声を忘れたって、顔を忘れたって、ひびきをひびきって呼ぶ人は俺しかいないんだから、すぐに判る」
俺は息苦しさを覚えて、思わず武の背中をきつく抱きしめた。
「忘れない」
声も、顔も、どんなことがあったって。
俺はつい口に出してそう言ってしまってから急に照れくさくなった。
「そりゃそうだ。だってひびきは俺のこと大好きで大好きで仕方がないんだもんなァ?」
目を細めてはにかむ武。その表情はカーテンの向こうから差し込んでくる朝陽に照らされて、ほんのりと赤く、光沢のあるベールでもかけているかのように美しい。俺は目が離せなくなった。
武はそんな俺を見透かしているかのように、短く唇を重ねてくる。舌先を求めると、するりと逃げられた。
「……聞いていい?」
俺の躰を両足で挟んで、跨ぐような格好になった武が上体を僅かに起こして俺の顔を見下ろす。俺は一方の手で腰を抱き、一方でその夢のように美しい頬を撫でた。
「この間の電話も、あの女からだったのか?」
穏やかな表情で尋ねる武に、俺はこの間っていつだよ、ととぼけてみせた。武はそれ以上追及せずに、黙って笑う。
そう、あの時武は電話の主が誰だったのか気にしていた。気にしていて敢えて、言葉を飲み込んだ。俺はそれに気付いていた。
「……ひびき」
武が掠れた声で俺の名前を紡ぐ。獰猛な野獣のようにしなやかな体を丸めて、俺の顔に唇を寄せてきた。
「しようか」
俺はその眸に吸い込まれないように、慌てて頭上の時計を見上げた。予定の起床時間まであと少し。
「時間計ってセックスするなんてサラリーマンみたいなことすんなよ」
そうは言っても、と反論しようとした唇は武に塞がれた。掌で視界まで覆われて、意識は全て武の舌と俺の上に乗った柔らかな肢体に誘惑された。
……この我侭ヤロウ。
俺はせめての反撃とばかりに武の舌に音を立てて舐め啜り、寝巻きの上から武を突き上げるような真似をした。
「ひびき、俺今日から一緒に働くんだよ? 忘れてるだろ」
そういえば、店長がそんなことを言っていたということを、熱い息を吐く武の言葉で思い出した。
「欲求不満のまま出勤したら、俺帰ってくるまで待てないと思うな。バイト先で色目使ってもいいなら、別にいいけど」
俺の下腹部に股間を擦り付けて息を弾ませながら、武が挑発的に言う。色目って。
「色目だって、ひびきに使ってればいいけど、他のお客さんとか……店長に使っちゃったらどうする? ひびき、俺がそんなことしたら怒る? 嫉妬する?」
俺はそれだけで満足しようとする武の腰を押さえてそれ以上動けないようにすると、強引にベッドに組み敷くように躰を反転させた。ベッドが大きく軋む。
「そんなことしたら、そのまんまサヨウナラ」
半分本気で言うと、表情を曇らせて武が縋りついてきた。
「どうして嫉妬しないの?」
顰められた武の表情は泣き出しそうで、俺はその顎に手を掛けると鼻先を擦り寄せた。
「他の人間誘惑する、なんて出来ねぇこと言うな。嫉妬して欲しかったらして欲しいって言え」
勝ち誇ったような笑みを浮かべて言ってやると、武は驚いたように目を丸くしてから、その頬を真っ赤に染め上げた。
「…………ムカつく……」
絞り出された唸り声。ざまァみろ。
「もう絶対近い内浮気してやる」
ぷいとそっぽを向いた武が不貞腐れて言う。
「浮気? 浮気ってのは、決まった伴侶がいる人間が出来るもんだ」
俺はそう言って笑いながら、武の下着の中に手を忍ばせた。先までいやらしく擦り付けていただけあって、熱を持って充血している。
「ふぅ、……ん、ン……!」
横を向いた武の耳穴を舌で侵しながら先端を指先でくりくりと撫で回してやると、武は膝を立て、腰を突き出すように痙攣させた。
「武にとって俺は、何だ?」
武の濡れた耳に囁く。
俺にとっての武が何なのかも判らないのに。こだわっている時点でもう、どれだけ俺が武に執着しているのか、……自覚はあるけれど。
「ぁっ、ん・ぅ――……っ判んない、もん、俺だけが何か言って、……決まる、モノじゃない、だろ?」
喉を逸らし、甘い声を交えながら答えた武に俺は言葉を失った。
愛撫を続けるよりもなんだか抱きしめたくなってきてしまって、……困った。
しかし俺が困ってることもすっかりばれてしまっているのか、武の方からぎゅうと抱きついてきた。
「ひびきは、本当はどう思ってるんだよ」
吐息が荒いままの武の艶かしい声。
そんなことに上手く答えられたら悩みはないんだ。
好きだ好きだ好きだって、もうただそれだけで
「俺は、――俺はね、ひびき」
武の答え
俺が息を呑んでその言葉を待った瞬間、
電話のベルが空間を切り裂いた。