深淵の天使(4)

『響、あたしのこと嫌いになった? 嫌いのなったの?』
 やっぱり? と知里は言った。
 嫌いになったんじゃない。ただ疲れただけだ。だけどお前は嫌いになった、と言って欲しいんじゃないのか。
 その方がよっぽど楽になれるんじゃないのか。
『響ごめんね。こんなあたしで、ごめん』
 知里のか細い肩が、抱き寄せられたがっている。
 だけど俺は見てない振りをした。


「ひびき!」
 布団の上から激しい衝撃を受けて、目を覚ました。
 驚きと痛みで重い瞼が弾かれたように開いてしまうと、武の顔が至近距離にあった。
「…………あ?」
 何つー起こし方だ。
 視線だけを動かして枕元の時計を見上げると、まだ早い。
「……何だよ……」
 俺は唸るように言って、また目を閉じる。
 嫌な夢を見た。それから覚ましてくれたのは嬉しいけど、それにしたって、……痛ぇ……。
「ひーびーきっ」
 寝直そうと瞼を閉じた俺の唇の端に、武の唇が押し付けられる。ちゅう、ちゅうと音をたててじゃれ付いてくるように何度も。俺は寝返りを打ちながら頭の向きを変えると、布団の中から腕を出して武の頭を抱いた。
「ぁ、……ん……っン・」
 武の舌が迷わず滑り込んでくる。それを吸い寄せ、俺の舌を絡める。
 武の掌が俺の頬に落ちて、髪を撫で上げた。布団越しに俺の上に乗っかった武の体が、捩れた。
「……何だ、そのために起こしたのか?」
 唾液の糸を啜りながら唇を離すと、俺は片目を開いて武の顔を覗いた。
「…………」
 武がぎこちなく笑う。
「どうした?」
 濡れた唇に指の背をなぞらせて、そのまま武の頬を掌で抱く。
「ひびき、……してくれるの?」
 どうしたんだ、今日また一段と可愛い子ぶりやがって。
 武に誘われたら俺なんか一溜まりもなくやられっちゃってるって言うのに。
「いいよ」
 間の布団を引き抜いて、武の体をベッドに横たえる。添い寝をするように抱きしめると、武の腕が首に巻きついてきた。
「ひびき、俺のこと好き?」
 俺は武の服の中に手を忍ばせた。いつの間に布団から抜け出てたんだか知らないけど、ずいぶん冷えている。掌でゆっくりと熱を移すように、撫で上げた。
「ああ、好きだよ」
 俺の掌で擽るように撫でられると武の肌はすぐに俺の掌以上に熱くなって、じわりと汗ばみながら俺にもっともっととせがむように擦り寄ってくる。
「どれくらい?」
 布団の中に潜って掌だけの愛撫をしていると、武も、皮膚を擦り合わせていく内に一つになれると信じているかのようにぴたりと躰を絡ませ、吐息を濡らした。
「判らない、……たくさん」
 武の首筋に舌を這わせ、歯を立てる。武の手が俺の背中で震えた。
「……子供みたい」
 笑う武が愛しくなって、首筋の唇を武の顔に上げる。
「俺の名前呼んでよ」
 武の服を大きくたくし上げて、その白い肌を露にする。
「うん? 武?」
 それともトムか、トーイかと尋ねると
「俺はひびきの、ペットでもおもちゃでもないよ」
 と武は小さく首を振った。そうか、そんな意味もあったのか。
「俺を武って呼ぶのは、ひびきだけだ」
 武が強く、俺の背中を握り締めた。そんなに縋りつかなくても俺は傍にいるのに。
「武、……武が好きだよ」
 丁寧に大切に、その名前を呼ぶ。
 俺は武とこうして躰を重ねているのに、まるで武の名づけ親にでもなった気分になった。俺が武と呼ぶことで、武が護られているような気持ちになってくれたらいいと願った。武の大切な名前。
「……じゃあ、俺はひびきの、何?」
 武が天井を見上げながら言った。
 ペットや、おもちゃじゃなく?
 俺は愛撫の手を止めて、様子のおかしい武の顔を見上げた。
「武にとっては?」
 俺の視線が向くと、武も俺の顔を見た。視線が絡まって、一瞬の後、ゆっくりと解ける。武が視線を伏せた。
「ひびき」
 武の唇が薄く開いた唇で紡いだ。
「"チサト"って誰?」