深淵の天使(3)

 まいったなぁ。
 今度はこっちが押し倒したくなってきた。しかしバイトにも行かないと。
 武にもう躰は売らせたくないし、ゆっくり人生について考えていいんだ何て格好つけて言っといて、金なくなったなんて洒落にならないし。
 武が行くなと言えば休んであげたっていいんだけど――まぁ一日くらいなら――でも涙目になって憎まれ口叩いてまで行っていいって言ってくれたのに休むってのもなぁ。
「絶対に、俺のだ。絶対に、だから」
 好きだからとは言わないのが、俺は何かあったかい気持ちになって
「武」
 呼んで、伏せられた顔を仰向かせる。
 そしてその無防備な唇に軽くキスをして
「いい加減服着ないと風邪ひくぞ」
 続きはバイトから帰ってきてからだ。名残惜しいけど、仕方ない。
「…………絶対に、俺のだからな」
 むくれた武が念を押すように繰り返す。
「判った判った、俺は武のものだよ。絶対に離れない」
 俺はわざと呆れたように言って見せて武を放した。すると武は卑怯なくらい、嬉しくて仕方ないような幸せそうな笑顔を浮かべた。
「そうだ、俺のだ。一生俺のことを大好きで愛しくて仕方なく思ってないと駄目だぞ」
 どことなく誇らしげに言って、武は俺の頬に唇を押し付けてから離れた。
「ハイハイ」
 そんなこと言われたら俺だって、メロメロになってたまらなくなる。俺は武みたいに美しくいとおしく笑って見せることが出来ないのに。
「じゃあその俺からの命令だ。今日の俺の着る服は、ひびきが今着てるものに決めた」
 ああまた我侭かよ。仕方ないな、全く。
 俺が大袈裟に溜息を吐きながらシャツの裾に手をかけた時、電話のベルが鳴った。慌てて子機に手を伸ばす。
「はい、沢村です」
 背後から武は俺のシャツを引っ張って、無理やり脱がそうとする。薄いシャツに移った体温を引き剥がされて、俺は身を縮めた。
『……響?』
 受話器の向こうから控えめに紡がれた声に、俺は自分の耳を疑った。
 その瞬間、俺の服を脱がそうとする武のてのことも気にならなくなって、俺の意識はぶっ飛んだ。真っ白に。
『……覚えてる? あたし。
――知里』

「ひびき、……ひびき? どうかした」
 通話ボタンを切った自分の親指が小さく震えているように感じた。
 何を話したのか覚えていない。
 知里の声も震えていた。
「ひびき、電話……」
 武は言いかけて、止めた。
「ひーびーきっ」
 武の腕が、びよんと伸びて俺の着ているシャツを頭から無理やり引き抜いた。冷たい空気に上半身を舐められて、俺はやっと我に返った。
「はい、着せて」
 俺から奪ったシャツを俺の胸元に押し付けて、武が笑う。
「何だ、今日はやたらと甘ったれだな」
 そう言って俺も笑ったのだけど、何故だか上手く笑えない。
「……だってひびきは、この方が良いんだろ?」
 ポツリと返された、武の低い声。
「え?」
 聞き返すと、武はふんと鼻を鳴らして
「ご飯食わせてもらってるお礼くらいはしないとな。せいぜい俺を猫っ可愛がりしろよ」
 不遜な表情で顎を上げ、武は俺のシャツの裾を直しながら食卓へ着いた。



『突然電話なんかして、……ごめんね……。びっくりするよね、あの、……覚えてる? あたしのこと……』
 途中何度も言葉に詰まりながら、知里は声を絞り出すようにして言った。
『ごめん…………迷惑だよね、今頃』
 俺は相槌の一つでも打ってやれていただろうか。そうじゃなかったら、きっと知里は必要以上に話し難かったに違いない。
 俺は何度知里の電話のことを思い返そうとしても、その間、知里の怯えるような俺を窺う目ばかり思い出していたことばかり記憶しているだけだった。
『急に……響の声が聞きたくなっちゃって、……ごめん、本当に、ごめんね』
 俺は、何かあったのか? と訊いただろうか。
 思い出せない。
 知里は電話口の向こうで泣いていただろうか。だとしたら、俺はやはり別れる前のように苛々していただろうか。
 思い出せない。
 俺が電話を持って立ち尽くしている間、武は――……
 駄目だ、何も思い出せない。
 知里の電話は何と言って切れたのか、何のための電話だったのか?
 知里と最後に会ったのはいつだっただろう。最後に交わした言葉は?
 さようなら、とは言ってない。それだけは覚えてる。
 今更電話がきたからってうろたえるようなことじゃない。
 俺は知里が鬱陶しくなって、嫌気が差して、離れていったんだ。その後も逢いたいなんて思うこともなかった。ただ、人を傷つけたことへの痛みが残るばかりで。
 今、俺の胸の中に燻っている気持ちは鬱陶しさの再来なのか、知里を懐かしんでいるのか、それとも――……。
「ひびき」
 急に武の声が俺の思考に飛び込んできて、俺は手に持っていたトレイを落としそうになった。
 バイト中にぼんやりするなんて、イカンな。
「なん、何――……武」
 過敏なまでに驚いた自分を悟られまいと冷静さを装いながら振り返ると、武がカウンターに寄りかかっていた。もしかしたらもう何分も、ぼんやりしている俺を観察していたのかも知れない。
「いらっしゃいませ、は?」
 ずいぶん偉そうな客だな。
「ハイハイ、いらっしゃいませ」
 磨いたトレイをカウンターに乗せて、武の寄りかかってきた腰を突付く。
「でも俺今日は客じゃないんだ」
 武はなにやら愉快そうな顔をして笑っている。何だ、煙草をご所望か?
「そうそう、面接しにきたんだよね」
 ひょい、と横から店長が出てきた。手には既にトレーニングビデオを持っている。採用決定する気満々じゃねーかよ。
「この時間アイソのある店員いないからな、藤井くんに来てもらおうかと思って」
 俺だって当社比でアイソ出血大サービスなんですけど、と返した俺の言葉は店長にも武にも軽く聞き流されてしまった。
「よろしくね、ひびき」
 バックヤードに招かれた武はカウンターで不貞腐れた俺を振り返るとそう言って、笑った。