深淵の天使(10)
武は、俺の着ているものが着たいという我侭を言わなくなった。
そうしてみてやっと、武の我侭がどんな意味を持っていたのかということが判った。
俺の着ている服を武が着るためには俺が一度その服を脱ぐ必要があるし、またこいつは我侭言いやがって、なんて呆れている俺を武が無理やり脱がしたり、そういう行為自体にも意味があると思うし、そうすることで肌と肌が触れることもある。
それから、これは俺の推測に過ぎないけど、俺が着ていた服に残る体温、残り香――そういったものを武は楽しんでいたんじゃないだろうか。
そうやって一つ一つあの生活を思い返していくと、俺は、何気なく見逃していた武のメッセージに今更ながら気付くことがたくさんあった。
これはそういうことだったのか、と判るほど、俺は武を愛しく思って、もう判ったから、もう十分にお前の大事さや愛しさは判ったから、ゲームを終えよう、と言いたくなる。
でもいつもそこで躊躇う。
武は改めて俺のことを見つめ直してどう思ってるのだろう、と。
時折魔がさして武を武、と呼びそうになったり、頭を撫でて抱き寄せて、キスをして――押し倒してしまいそうになる。
そこを慌てて思い止まってごまかす俺を、武は照れくさそうに可笑しそうに見ている。
これはこれで幸せなんじゃないだろうかと思うこともある。
武は男だ。いくら愛しく、恋しく思っていても、これくらいの際どい線で気持ちを押し止めるのが一番正しい愛情表現のような気もしてきた。
愛情表現に正しいも正しくないもないけど、愛しく思えば思うほど、狂おしく抱き締めることより、その気持ちを押し止めていることがバレた上で苦笑を交し合う方が、よっぽど良いのじゃないかと思う。
いつか俺は別の大切な女と結婚して、そこそこの幸せを満喫して、武と仲良くトモダチに――本当の友達になれたら良いんじゃないかと思う。
恋にはいつか、終わりが来てしまうから。
「響、お前彼女はどうなったんだよ。知里ちゃん」
二次会のカラオケで、だいぶ酒の回った様子の友人が赤い顔をして俺の肩を叩いた。
「ああ、この間やっと別れたよ。きちんと」
狭い個室に詰め込まれた男女合わせた旧知の友人がおおっと大袈裟にどよめいた。みんな酒が入っているからリアクションがでかい。
「おめ、それってもてる男の台詞なんじゃね?」
小突かれて、俺はただ苦笑した。もてる男なら多分、もっと知里を楽にしてあげられてたんじゃないか?
「うそー、でもやっと、だよね」
長ぇんだよキョウは、この遅漏が、とおおよそ女の口から出る台詞とも思えない罵声を浴びて、俺は大袈裟に首を竦めた。
大学を卒業しても頻繁に会うことの多い友人内では男も女もないし、プライベートなんてないくらいお互いあけすけに何でも知っている。何でも言い合える。
「ホント、どれくらい時間かかった? ダメだよ、女の子はさぁ、そういううやむやなの気にするんだから。きっちり別れといてあげないと、その間他の恋愛にエネルギーが向かなくなっちゃう」
森川が赤いカクテルを片手に説教モードに突入した。
そりゃあんただけだって、と突っ込みを入れられながらも大きく首を振って、険しい目で俺を見据える。
「そんなもんか?」
軽く受け流そうとして、俺はテーブルの上のマイクを森川に押し付けた。
「そうよ!」
マイクを跳ね除けた森川がブラスを持つ手に力を篭める。その断固たる主張に、他の友人も口を噤んだ。
「じゃあきちんと別れてやりさえすれば、すぐにエネルギーが別の男に行くのか? 女にとって恋愛ってそんな簡単に割り切れるものなのか」
ああ、俺もたいがい酔ってるな。ついつい森川の気迫につられて、どうでもいいことに噛み付いてる。
「簡単だなんて言ってない! ……でも少なくとも、努力は出来るわ」
森川は歯噛みするような表情で徐々に俯きながら、絞り出すような声で言った。
「そんなの、しばらく連絡が途絶えた時点で察しろよ。兆候はずっとあったんだしさ」
縋りつくための言い訳だろ、と別の友人が口を挟んだ。森川はそれに弾かれるようにして顔を上げ、反論しようと口を開いた瞬間、俺と目が合って、唇を閉ざした。
「恋愛に法則やルールはないだろ? 森川はそう思うんだし、知里がどう思ってたかは俺にも判んないしさ。俺には俺なりの思うところがあったし。恋人だとか何だとか、人との関係を共通の言葉で区切ろうなんてのはやっぱり無理だよ」
そう取り纏めようとして、俺は脳裏に武を思い出していた。
ゲームを始めて一ヶ月。
俺はこのままでいても良いと思い始めているし、元の通り武を愛したいとも思う。
だけどその微妙な心の揺れ幅を、言葉で武に伝えることは出来ない。
「沢村、さっきはごめんね」
カラオケボックスを後にしようかという頃、トイレに立った俺を森川が追ってきた。
「気にしてないよ。俺の方こそごめんな」
クサいこと言っちゃってー、と茶化して詫びると森川は困ったような顔をして笑った。
森川にも森川の抱える何かがあるんだろう。俺はそれについて言及しようとも思わずに、尻のポケットに入れた携帯電話を取り出して時間を確かめた。
「……沢村」
近くの個室から漏れ聞こえてくる歌声に掻き消されそうな小さな声で森川が呟いた。
「私ずっと、沢村のことが好きだったんだよ」
俺は、携帯電話の背面ディスプレイに光った2の字を確かめてから、森川の顔を見た。森川の顔は、これっぽっちも酔っていなかった。
「俺、好きな奴がいるんだ」
三次会は断って、もう家に帰ろう。武が待っているかも知れないから。