深淵の天使(11)
武が起きている。
そう感じる夜が何度かあった。
白紙に戻そう、と言った日から――そもそも「戻そう」なんておかしい。俺と武は友達だったことなんてないんだから――武は、俺と別の布団で眠っている。
その所為なのか、武は夜、あまり眠れていないようだった。
それは寝転がったまま起きていることもあれば、身を起こして俺をじっと見ていることもあった。
……それを知っている俺も眠れてないんじゃないかってことになるんだけど。
俺はそのたびに胸が痛くなった。
どうしたらいい? 俺はどうしたらいいんだ。武を抱き締めて、訊いてやりたかった。
俺は武に何をしてやれるんだ。どうしたら武は、悲しまずに済むんだろう。
俺はいつもそんなことを考えながら眠っている振りをした。俺を見ている武が、泣いているわけでもないのに。
家に帰ると部屋の中は暗く、静まり返っていた。
俺は物音を立てないように静かにベッドに近付いて、腰を下ろす。途中、コンビニで買ってきた500mlのペットボトルを開けて、ミネラルウォーターを喉に流し込む。腹の奥に燻っていた酔いが冷えていくような感じがした。
「ん、……あ、沢村くん……?」
目を擦りながら武が身じろいだ。来客用の布団を宛がわれた武が肩を起こして、寝返りを打つ。
「起こしちゃったか。悪いな」
武がその白い手で擦っている目蓋が少しも眠そうに見えないのは俺の気のせいだろうか?
ずっと起きて俺の帰りを待っていたんじゃないかなんて、俺の自惚れだろうか。
「ううん、……沢村くん」
本当に寝惚けていたら、武がこんなにしっかりと話を出来るわけがないのだ。
俺をきちんと「沢村」と呼べるはずがない。
「何?」
「酔ってる?」
ようやく擦るのを止めた武の目が、布団の上掛けから覗く。その目はやたらと光っているように見えた。
「いや、……あんまり」
お前が寝惚けていない程度には素面だ。そう言おうとして、俺は苦笑を噛み殺した。
飲んでからしばらく経つし、後半はサワーばっかり飲んでいたおかげでちょっと暖かいなという程度にしか酔っていない。
俺が答えると、武は「なーんだ」と言って、再び上掛けに顔を隠してしまった。
「どうしてだ?」
俺はペットボトルの蓋を閉めなおして、ベッドサイドに預けた。
「……別に……」
くぐもった声。拗ねたような声音だった。
「……酔ってたら、悪さでもしようと思ってたのか?」
俺はほんの些細な賭けのつもりで尋ねた。冗談めかして。
でも、この夜の闇が俺の冗談をぶち壊してくれたみたいだった。
「まさか」
笑って返した武の声も白々しい。
後には、ぎこちない空気だけが残った。
「――……今日、俺さ」
硬い空気に体当たりしたのは俺で、やっぱり俺はこの時酔っていたのかも知れない。
「告白されちゃったよ。大学時代の友達に。友達だと思ってたからさぁ、女とも見てなかったのに」
乾いた笑いが、俺の胸の中に空虚に響く。
「へぇ、……ひ、沢村くん、は、もてるんだ」
上掛けを頭の天辺まで被った武の声が震えている。
武じゃなくたって、俺だって、泣きたくなる。どうしてこんなこと、続けてなくちゃならないんだ?
俺が考え直したいと言ったからじゃない。武も俺も、男同士だからか?
どうしてこんな状態のまま一緒に居続けてるんだ。俺は武と友達になりたいわけじゃない。
だけど、そう、武は俺と友達になりたがっているのかも知れない。
きっともう武は、愛だの恋だのそんなことは、信じられなくなっているだろう。
もし武が、俺の力で少しでも安心していられるのなら、今まで感じることの出来なかったささやかな幸福感を得られるのなら、かけがえのない友達、それで良いのに違いない。
「…………藤井」
俺が呟くように声をかけると、武の被った布団ごと大きく震えた。
「おやすみ」
俺は苦笑の浮かんだ唇で優しく続けた。
武がそうしたいというなら、俺はそれでも良い。