深淵の天使(12)

 それはいつもと同じ朝だった。
 俺が食事当番でキッチンに立っていると、電話が鳴った。
「藤井、出てくれ」
 俺は天ぷらを上げる手元から目を離さずに、当然のように言った。
 俺が食事当番なら安心だというようにリビングで転がっていた武が渋々立ち上がって、子機に手を伸ばす。
 この家は俺の家で、武の所有物が殆どないように、武への電話など来るはずもない。俺宛の電話であることは確実なのだが、どうしようもないセールスだったら適当にあしらってもらおう。そんな気持ちだった。
 大体この携帯社会で、俺宛の電話だってそうそうかかってくることなどないのだ。
「はい、サワムラです」
 ぎこちないながらも慣れた様子で電話を取る武の声に耳を傾けながらも、俺は揚がったばかりの天ぷらをキッチンタオルの上に乗せた。
「…………はい?」
 武の声のトーンが下がった。様子がおかしい。
「……はい、俺 ……ですけど」
 俺は反射的に、天ぷら油の火を止めた。武の姿を振り返る。武は俯いていた。
 天ぷらの乗ったトレイをシンクに置き、踵を返す。
「はい……そう、です。武は俺です」
 武宛ての電話? そんなこと、今までなかった。あるはずがない。調べようと思えばいくらでも調べがつくだろうけど、武には、武に連絡をしてくる必要のある人間なんていないんだと、武本人がそう言っていた。
「――――……ッ!」
 刹那、一瞬の内に武の顔面から血の気が引いた。
 額には玉の汗が浮かび、唇が青黒く変化した。目の前で、人の魂が抜けていく瞬間を見ているようだった。
 プラスチックが軋む音を立てるほどきつく握られた電話機。俺は武が今にも倒れ込みそうで、慌てて駆けつけた。
「どうした?」
 俺は、目の焦点が合っていない武から電話機をもぎ取ろうと手を出した。しかし武は、その小刻みに震えている体から出てくるとは思えないほどの力で俺の手を拒んで、通話ボタンを押した。
「おい、……おい。どうした? ……どうしたんだ」
 武の肩が徐々に大きくぶれ始める。震えているのかと思ったが、どうも肩で喘ぐようにして大きく呼吸を繰り返していた。でも、震えてるのかと思うほど早く、忙しない。
 このままじゃ過呼吸になる。俺は武の口を塞ごうとするように咄嗟にその肌に触れた。……何十日か振りに。
 俺が触れたかと思った瞬間、武は砂が崩れるようにあっさりとその場に膝を折った。
「武!」
 慌てて肩を抱きとめる。
 空ろな眸の武は、久し振りに俺の腕の中にいることなんてきっと気付いていないんだろう。白く乾いた唇が弛緩し、その中で奥歯が鳴っている。
「………………ひび、き」
 俺の名を、微かに呟いた。
「どうした? どうしたんだ、武」
 ざわざわとした嫌な予感が、俺の全身に覆い被さってきた。俺はそのどす黒い暗雲から武を守るように、肩を抱く腕を強くした。
「武、どうしたんだ? 何の電話だった、言ってみろ」
 ヒュウ、と武の喉が鳴った。苦しげに弾む呼吸が武の身をますます重くさせている。額の汗が、こめかみを伝って流れ落ちた。
「……ひび、……ひびき」
 力のない掌が、俺の胸を掻くように掴もうとする。ぞっとするほど冷たい指先だった。
「何だ? 武」
 体温を失った頬に手を宛がって温めてやろうとすると、空――地獄かどこかを彷徨っていたかのような虚ろな武の眸が、ようやく俺の顔の上で焦点を結んだ。
「ひびき…………」
 触れたらたちまち罅が入って砕け散ってしまいそうな唇が、脆く、言葉を紡ぐ。
「俺の母さん、死んだって」


 母さん、ごめん。
 俺の母親が死んだんだったら、俺はきっとこんな風にうろたえることはしなかっただろう。
 いくら突然の死でも、悔やんだり悲しんだり、取り乱したり沈んだりすることはもちろんあるだろうけど、多分こういう類の衝撃はないだろう。
 武の母親が死んだという、そのものの情報よりも、俺は目の前で倒れこんだ武自身に、自失していた。
 武のショックは、俺が今まで生きてきた中では想像もつかないほどの凄まじいものなんだろう。
 俺はこんなに、滴る冷や汗が絶えないくらい、歯が噛み合わないほど震えるような、そんなショックに出会ったことはない。
 ……正直言うと、ゾッとした。
 母さん、死んだって。そう言った武の虚ろな声。その虚無感。
 底のない闇を覗き込んでいるかのような悪寒を感じて、俺は恐ろしくなった。
「…………ありがとう」
 俺から温かい紅茶を受け取った武はそう言って、ベッドから身を起こした。
 自我を失ってしまいそうに全身を震わせて、瞳孔を開いたまま呼吸すらままならないでいる武をベッドに運んだまではいいものの、俺は武にかける言葉の一つも見つからないでいた。
「ひびき……」
 時計の針が大きく移動した後で、武は消え入りそうな声で呟いた。どうやら呼吸は落ち着いたようだ。
「どうしよう……」
 武の手に持ったカップの水面が揺れている。
 俺は、武に責められているように感じた。
 何も言えないでいる俺に、何か言えよと。
「……どう、……っ」
 武は繰り返そうとして、言葉に詰まる。がくりと折った首が深く伏せられて、俺は武が泣いているのかと思ったが、そうじゃなかった。
 全身が痙攣でも起こしたかのように徐々に激しくなる。
「武」
 俺は紅茶をカップの淵から零してしまいそうな武の手に掌を重ねて、ベッドの脇に腰を下ろした。
「落ち着いて」
 そう言って、武の顔を覗き込んだ。
 俺が武を、暗澹とした何かから守ってやろうなんて、守ってやれるんじゃないかなんて、考えていた。驕っていた。
 俺は、俯いた武の顔をベッドの下から見上げて、すぐにそれに気付いた。掛ける言葉を失った。
 武は泣いてなんかいない。もう、虚無でもなかった。
 そこには、滾るような憎悪だけが刻まれていた。
「あの女だけは、…………俺が殺してやろうと思ってたのに……」
 か細く震える声で武が呟く。それは悲しみじゃなく、怒り、憎しみで震えているだけだった。
 俺は反射的に武から離してしまいそうになった手を寸でのところで押し止めた。
「事故、だってさ……あの女、俺だったら、もっと酷い方法で、殺してやったのに」
 お世辞にも華奢とは言えない陶器のカップが武の手の中で軋む音を立てる。俺の掌の下で、武の指先が冷たくなっていた。
「俺の足元に額を擦り付けて謝って、命乞いをさせて、あの、……あの醜い面に唾を吐きかけてやるんだったのに! やっと借金を返し終えたのに、あの女を見つけ出して、復讐をしてやろうと、――……ッ畜生!」
 武は絶叫にも似た声を張り上げて、俺の手を振り解くとカップを壁に叩き付けた。
「死んだ? ふざけるんじゃねぇよ、あの女はどこまで無責任なんだよ。俺一人にこんな思いさせといてどこでのうのうと暮らしてやがったんだッ、っァ、あ……あァああっ!」
 武は自分の頭を抱え込んで、自分の身が引き裂かれでもしているかのような声で呻いた。畜生、畜生ともはや言葉を紡ぐことも出来ずに獣のように喚き続ける。
「武」
 俺は掛ける言葉の用意もないまま、武の肩に手を伸ばした。
 このまま武が、俺の目の前で壊れていってしまいそうな気がして。
「触るんじゃねぇよ!」
 刃のような声が、俺に向かって牙を剥いた。
 俺の掌を鋭く弾いて、武が充血した眸を俺に突き刺した。振り乱した武の髪が、冷や汗で額や頬に張りついている。血の気を失った肌はくすんで、ただ両目だけが爛々と輝いて俺を呪い殺そうとでもしているかのように押し迫ってくる。
「てめえだって一緒だ、人の体を金で好きにしやがって、うす汚ねえホモ野郎! 死んじまえ!」
 武の声は既に枯れていた。引き絞るようにして吐き出された怒号は凄みを帯びて、吊り上がった両目、鬼のような形相はまるでどこかの美術品のように、美しさすら感じた。
「……それだけしか言うことはないのか?」
 俺が冷たく言い返すと、武の眉がピクリと跳ね上がった。
「それとも感情が昂ぶりすぎて言葉にはならないか」
 その気持ちはよく判る。子供が地団太を踏むのと同じで、どんな言葉を持ってしても、気持ちには追いつかない。
「それなら、暴力に訴えたって良い」
 俺は両腕をぶら提げて、ベッドの脇を立ち上がった。武は自分の怒りのやり場を探しているだけなんだろう。
「お前の母親の代わりに俺を殺して良い、とまでは言えないが――言いたいことがあるなら、晴らしたい恨みがあるなら、俺にぶつけたって構わないよ」
 武の頬の筋肉が、痙攣したように震えた。何か言葉を紡ごうとしたのかも知れない。
 しかし、繰り出してきたのは武の右腕だった。俺の脇腹を無闇に打ってくる。
「……ッ!」
 俺は思わずぐらついた上体を支えようと、後ろに一歩、足を引く。膝を落として体勢を整えた。
「畜生!」
 ベッドから足が飛び出してきて、俺の腿を抉るように蹴りつけた。細い踵が骨と腱の間に嵌まって、俺は思わず声が上がりそうになるのを堪えた。すぐにまた、俺の胸を左の拳が殴りかかる。肺を一瞬押し潰されて、俺は噎せた。
 そんなことなど構いもせずに武の拳は俺の顎を捕らえて、俺は大きく脳を揺さぶられた。
「っ畜生! 死ね、お前らなんて全員死ね! 俺をあんなに擂り潰して、何度も、何度も、殺したくせに、お前らだけのうのうとしやがって、ッ! 死んだ方が良いなんて、死にたいなんて、思わない日なんて一度もなかったのに、てめえらだけ、てめえらだけ、……ッ!」
 俺は思わず床に膝をついていた。頭上に振り下ろされる踵から、頭を庇おうとして、止めた。
 今、俺が耳を塞いでしまったらまた、武の悲しみも怒りも、行き場を失くしてしまう。俺は武の腕よりも、蹴りよりも、武が割れた声で絶叫する悲鳴のような呪詛の言葉ばかりが痛くて、唇をきつく噛み締めた。
 武はそのまま三十分ほども俺のボールのようになった体を痛めつけた後、やがて、力を失って俺の上に覆い被さるようにして倒れ込んだ。