深淵の天使(13)

 武が病気でぶっ倒れた、ということにして、俺も、当然武もバイトを休んだ。俺はあの店で働くようになってから一年半、初めてのことだった。
 お大事にと武を気遣ってくれた店長との電話を切ったあと、切れた唇の端を簡単に消毒してから、ベッドに横たえた武の姿を覗きに行った。
 武は泣いていた。
 たった一人で布団に包まって、声を殺して。

 
 夕日が向かいのビルに沈んで見えなくなってしまうまで、俺はリビングで何をするでもなく座り込んでいた。武がまだ泣いているのか、泣き疲れて眠ってしまったのか、知らない。
 俺は何を考えるでもなくただそこに、だけど世界で一番武に近い場所で、時間をやり過ごしていた。
 遠くの家々から家族団らんの声が聞こえ始める頃、寝室の扉がかたりと鳴った。
「…………ひびき」
 掠れた声が、俺の視線を上げさせた。
「おなか、すいた」
 振り返ると、そこには暗い眸を睫で半分以上隠した武が立っていた。肌はがさがさに荒れ、自分で掻き毟ったのだろう髪が乱れている。両腕をだらりと落として、か細い糸で吊るされた人形のようだった。
「そう言うだろうと思った。今日、何も食ってないもんな」
 俺は自分にできる限りの優しい笑顔を浮かべて言ってやろうと思ったが、何箇所も切れてまだ傷の塞がっていない唇が痛くて、笑うことは大失敗。
「天ぷら冷めちゃったから、天丼でいいか?」
 俺が腰を上げながら訊くと、武は黙って頷いた。頭の重さで思わず首が折れた、というような動きだった。
「じゃあ、テーブルついて待ってな」
 ベッドから起き上がれたってことは、肉体的にダメージは受けていないんだろう。心配した過呼吸も大丈夫そうだったし。
 気付くと暗いままにしていたリビングの明かりを、俺が思い出したように点灯すると、武は顔を伏せて眉間に皺を寄せた。
「……暗い方が良いか?」
 尋ねると、無言で肯定を返す。俺は仕方なく灯りを消して、キッチンへ向かった。
 反射的に灯りを嫌がったくせに、俺が調理のために明かりを点けざるを得ないキッチンへと、武はついてきた。
 ただ何も言わずに、突っ立っている。
「どうした?」
 尋ねても、何の返答もない。
 魂のない、抜け殻のように、青白い青年がただ吊るされているようで不気味にすら思えた。
「何か、飲むか」
 あんなに叫んで、たくさん泣いたんだろう。喉が渇いているかも知れない。俺が言うと、ようやく武は頷いた。
 何を飲むか、と聞いても同じだろうから、俺はアイスコーヒーで良いか、という聞き方をした。武は首肯で返事をする。
 コップに作り置きのアイスコーヒーを注いで渡してやると、武はその場で一気に飲み干した。
「おい、武」
 腹壊すぞ、と腕を伸ばすと――触れるつもりはなかったのだが――乱れた前髪の向こうから、鈍い光を放つ眸がギロリと、俺を冷たく睨みつけた。

 天丼を食っている間も武はずっとこんな調子で、俺が美味いか、と聞くと箸を止めて小さく頷いた、それきり。
 綺麗に平らげた後もずっとテーブルでじっとしているので、麦茶でも飲むか、と尋ねるとまた頷いた。だけど今度は一気に飲み干すことはなく、二、三口を嚥下すると武は動かなくなった。
「武、眠っておいで」
 俺がそう声をかけるまで、武は呼吸をしているのか心配になるくらい微動だにしなかった。
 寝室に向かう武の後姿に、そういえば紅茶のカップが寝室の床に落ちたままだ。もう欠けて使い物にならなくなっているかもしれない、と思い出して俺が腰を上げると武は再び俺を振り返り、ねめつけた。
「俺に、……触るな」
 目を瞬かせた俺に、武の震える声が低く響いた。
「大丈夫、触らない」
 そうは言っても信用なんかできないかもしれないが、それでも武は俺の返事を聞くと途端に俺から興味を失ったように視線を逸らして、無言で布団に潜り込んだ。

 武はその晩、熱を出した。

 武の熱は朝になっても下がらず、俺はもう一日バイトを休む羽目になった。
 なるべく武の体に触れないようにして看病をしているつもりだったが、高熱にうなされ続ける武は俺のことなんか良くも悪くも気にしている場合じゃなくなり、俺は昼夜を問わず武の汗を含んだ寝間着を何度も取替えた。
 昏々と眠り続ける武は時折悪夢にうなされるようにベッドの上で何かから逃げ出そうともがいた。
 どんな夢を見ているのか知らない。想像してしまったら、俺はこれ以上武を見ていられなくなって、自分までおかしくなってしまうと思った。だから俺は祈るような気持ちで武の頭を抱いて、ゆっくりと髪を何度も撫で続けた。そうすると、武の苦しそうな呻き声は少し、治まるのだった。