深淵の天使(14)
ある朝目が覚めると武の熱は引いていた。
二日、三日ほど熱を出していたことになる。その間何度も病院に連れて行こうかと迷ったが、何とかそうせずに済んだようだ。
命には代えられないけれど、何しろ武には保険証も無いだろうから。
「具合どうだ?」
三十六度を超えない体温計の目盛りを見て安心すると、俺は武の顔を覗き込んだ。しかしそれでも、相変わらず顔色は悪い。むしろ熱を出していた時の方が頬が高潮していて、顔色がいいように見えた。もともと色白な武の肌は、あの電話があって以来血の通わない陶器で出来た人形のように表情を映さなくなってしまった。
俺の問いかけにも、首の上下運動だけで応える。
「じゃあ今何か、美味いもん作ってやるから待ってろ。……あ、何か冷たいもん飲むか?」
俺が景気つけるように努めて明るい声を出すと、武はまた一つ頷いた。
俺がフルーツサラダとオムライスを作って寝室に運ぶと、武は麦茶で良いと言ったくせにグラスに口をつけていなかった。
とはいえ、武は俺の出した選択肢にいつも頷くばかりで、自分で何が欲しいと言うことも無いのだから、もしかしたら麦茶では嫌だったのかも知れない。俺はどこか申し訳ないような気持ちに苛まれながら、オムライスをベッドサイドに置いた。
「食欲あるか?」
尋ねながら武を窺うと、重い腕を伸ばして武はスプーンを取った。
ゆっくりと、緩慢な仕草で食事を始める。
深く伏せた瞼は瞬きもしていないかのように見え、皿と唇を往復するスプーンも、まるで機械仕掛けのように定期的だ。
残してもいいからな、と俺が口を挟むまでもなく武はオムライスもサラダも、ぺろりと平らげてしまった。
俺はますます安心して、時計を見上げた。もう、少しくらい一人にしても大丈夫だろう。
「俺バイト行ってくるけど、武、お前はもう少し……眠ってるか?」
武はまたこくりと頷いて、ベッドに横になった。
ほぼ一週間ぶりにバイトに出ると、まず顔の痣のことを尋ねられたが、言葉を濁して逃れた。
武の容態についても同様、熱は引いたんだけどと言うとやっぱり病院を勧められた。でも、熱が引いた今となってはもう、武の体は医者で治せる問題じゃないのだ。武の、気持ちの問題だ。
武の看病をしていた俺は殆ど眠っていない日が続いていたが、バイト先のいつもと変わらない日常的な空気はどこか落ち着いた。
ピリピリとはりつめた、自我を崩壊させてしまったような武の傍にいることで意外と疲れていたのだと自覚した。
だけど、武には俺しかいない――多分――のだし、実際あんな人間をあてもなく放り出すことなど出来ない。一年近く一緒に暮らしてきたのだし、俺は武を抱きとめることができる、抱きとめたい、と思ってもいた。
ただ、武はいつか元に戻るのだろうか――戻らないんじゃないだろうか、それだけが、とてつもなく不安だった。
バイトを終えて家に帰ると部屋の中は暗く、武はまだ眠っていた。
そっと額に掌を宛がうと熱も引いたままのようだ。しかしこんなに長時間昏々と眠り続けるということは、まだどこか具合が悪いのだろうか? やはり病院に連れて行くべきだろうか。
「武」
起きても起きなくても良いような気持ちで、俺は小さく呼びかけた。
しかし武はぴくんと体を震わせて、まるでスイッチの入った人形のように目を開いた。
「……ただいま」
それでもやっぱり俺は、武が眼を開くと嬉しくて、武に以前のような「表情」がなくても武が俺を向いてくれると愛しくなって、微笑んだ。
「ひびき」
武はベッドの上で重々しく体を起こすと、無機質な声を紡いだ。その声は少しまだ、枯れている。長いこと話していなかったからかも知れない。
「お腹すいた」
「メシ食ってないのか?」
驚いて尋ねると、武は首を上下させた。あれからずっと眠っていたのだろうか。俺がバイトに出ている間、八時間も九時間も?
「バカ、何か適当に食ってろよ! ……待ってろ、今、作るから」
俺は慌ててキッチンに立った。
こんなことならバイト終わった後だらだらとバックヤードで煙草吸ってるんじゃなかった。すぐに帰ってくるんだった。
俺は冷蔵庫を漁って使えそうな食材を取り出しながら、自分の失態を恥じた。武はまだ、自分じゃ何も出来ないんだ。それなのに、俺は武の熱が引いたくらいで安心していた。申し訳なかった。
背後で物音がした。振り返ると、武が立っている。じっと、俺を見詰めて。
「餃子と、あと……茄子の味噌汁で良いか?」
武は頷く。しかし、そこを移動しようとしなかった。
「麦茶かコーヒー、飲むか」
他に用事があるのかと尋ねてみると、武は頷いた。
まるで言葉を失ってしまったかのようだった。
食事をぺろりと腹に収めてしまった後で、武は例によってまたぼんやりとテーブルに着いたまま立ち上がろうとしなかった。
日中ずっと眠っていたんだったら眠くもならないんだろう。武に負担をかけない程度に、しかし時間を潰せるようなものと考えて、ビデオでも借りに行こうかと持ちかけると武は首肯した。
二十四時間営業のレンタルビデオ屋に行って、俺の選んだ洋画に武は頷きだけで反応を示し、俺は武と夜通しビデオ鑑賞することにした。
映画の内容を頭に入れているのかいないのか、テレビの画面をぼんやりと眺めて微動だにしない武の隣で俺は途中まんじりともしなかった。
ビデオなんて安易に思いついてしまったけど、途中、例えば武の心の琴線に触れるような描写でも出てきたらどうしよう、母親のことを思い出させるようなシーンでもあったら武はまた暴れるんじゃないだろうか、暴れるならまだ良い、武をこれ以上傷つけることになってしまったらどうしよう、そう思うと俺は体どころか気持ちも休まらなかった。
しかし実際は何事もなく、武はビデオを三本も見終えた後もなんら変わらなかった。窓の外が明るくなって、俺は武にさすがにもう寝た方が良いと促した。
武は俺が言うことに従順に立ち上がると、黙って寝室へと向かう。
武は、自分の意思をどこかに置いてきてしまったんだろう。
武自身が言ったように、今までどんなに自分の意にそぐわない辛いことや苦しいこと、屈辱的なことにも耐えて来られたのは母親への憎しみだけだったのだろうから、その――ある意味での――支えを失って、武は生きる術を見失ってしまったのかも知れない。
俺は、武が自分の足で立てるようになるまで、じっとそれを見守っていることしか出来ない。
俺がもう少ししっかりしていれば、武を支えてやれたかもしれない。あるいは武に何か、大事なことを伝えられたかもしれないけど、俺は定職にも就かないようなどうしようもない人間でしかないから、せめて、武が自分でそれを見つけられるまで、傍で体調管理をしてあげることくらいしか出来ない。
それでなくても、俺だって武の人格を踏みにじってその体を金で買った客の内の一人なんだし、その後の武の甘い言葉を疑うことなんてしないけど、それでも武の人生を、俺は自分の都合の良いように捻じ曲げてしまったのかもしれない。そのくせ、今、武に何もしてあげられないなんて、最悪だ。
俺は武がベッドに潜り込んでしまっただろう後も、その寝室に足を踏み入れられないまま、再びバイトに出かけた。
バイトに出かける前に武を起こすとメシを食わせ、帰ってきたらまたメシを食わせ、夜は読書やビデオ鑑賞で時間を潰す、という生活は暫く続いた。
俺は朝方武が寝室に戻るとバイトに行くまでの間、ようやく自分の時間を手に入れられるのに、熱いシャワーを浴びて頭をすっきりさせるので精一杯だった。
武があんな風に自分自身や、言葉を見失ってしまった今、俺まで気を滅入らせているわけにはいかない。武に引き摺られてしまわないように、俺は必死だった。俺まで参ってしまったら武を誰が看ていてくれるんだろう。武を引き取ってくれる当てなんてない。それ以上に、俺自身、武と離れたくはなかった。こんな状態になってもまだ。武にはもしかしたら、そんな気などなくても。
店長には武は暫く復帰できないかもしれないと伝えておいた。
もともと俺と店長の二人で回していたシフトの穴は埋める必要もなく、店長は武の心配をするばかりで快諾してくれた。
バイトのことなんてどうでも良かった。でも、武がこのままだったら、そう思うと苦しかった。
俺自身の忙しさなんてどうでもいい。自分自身から要求をしない武に対して、俺が至らないところはたくさんあるだろう。俺はせめて、自分のできる範囲で、武が過ごしやすいようにしてあげることしか考えられなかった。
「はよございまーす」
寝惚け眼の店長が厨房に顔を見せると、俺は考えていたことを一旦頭から追い出した。
とりあえず俺はもりもりと働いて、武の食い扶持を稼がないことには。
「響、お前顔色変じゃないか?」
エプロンを器用に縦結びした店長が眉根を寄せる。
「そうすか?」
顔が変、の間違いじゃないですか、と言うと店長は大きく口を開けて笑った。
確かにここの所ずっとろくに眠っていない。だけど、それだけだ。武の苦しさに比べたらなんてことはない。
「それより今日けっこう売り上げ良い感じですよ。パティ三枚焼いとかないとやばい感じ」
「忙しかったのか?」
大丈夫か、とまた俺の顔色を心配そうに窺ってくる店長の顔
が、
歪んだ。
「いや、そうでもなかったですけど。……パートの伊藤さん、が」
頑張ってくれたし、と続けようとして舌がもつれた。
歪んだ店長の顔を振り払うように首を小さく振ると、頭を背後に引っ張られるような感覚に陥って、俺はカウンターに慌てて手をついた。
膝が折れそうになる。遠くで、店長がおい、と俺を呼んだような声が聞こえた。
眠いだけだ、大丈夫。俺は自分を奮い立たせようとしてカウンターについた手で縋ろうとした。しかし、目が回ってむやみに掌が宙を掻いた。
――やばい
天井が遠ざかる。トレイが派手に音を立てて床に散らばった。
視界が暗転する。武、咄嗟に俺はその名前を呼ぼうとして、口を噤んだ。そこまでは覚えている。