深淵の天使(15)

 それから後のことを、俺はまるで知らない。
 しばらく気を失っていたらしく、目が覚めるとそこは病院だった。
「気がつきましたか?」
 白衣の女に言われて、俺はたっぷり60秒くらい状況が飲み込めなかった。
 何があったんだ?
 あれ、俺結局、武を病院に連れてきたんだっけ。でもそんな記憶はない。俺はバイトしていた筈じゃなかったっけ。
「気がついた?!」
 硬いものが割れるような音が響いて、慌ててそっち――病室の扉の方を見ると、俺が今まで見たこともないような、真剣な表情の武が立っていた。病室のクリーム色の扉が、まだびりびりと震えている。
「ええ、気が付かれましたよ」
 じゃあ検温しましょうか、なんつって看護婦が俺の腕を取った。
「や、ちょっと待って下さいよ。病人は俺じゃなくて、コッチの」
 俺は反射的に武を指差して言った。
 言ってから、あれ? でもこの武はきちんと喋ってるし焦点も合ってるし、何か勝手に俺の服着てるし――……そんなことを一瞬の内に考えて、次の瞬間には
「ふざけんな!」
 武の拳が、ベットから半身を起こしかけた俺を容赦なく殴りつけた。
「藤井さん!」
 看護婦の悲鳴のような声。
 あれ? 武が元気だ。
「こんなふざけた奴は三回くらい死んだ方がちょうど良いんだ! こんな、ふざけた……こんな……、ッ馬鹿野郎!」
 俺を殴った拳をぶるぶると震わせながら、見る間に武は眸いっぱいに涙を浮かべ始めた。
「死んじまえ、お前なんかッ・俺がぶっ殺してやる絶対許さねぇ、……絶対……ちくしょう!」
 死、とか殺してやる、とか、武が自分の母親を詰った言葉。
 俺はあの暗い部屋に充満した肌を刺すような感情の昂ぶりを思い返した。
 武は母親を確かに呪っていたんだろう。殺意で一杯だったんだろう。だからあの時、俺は武が怖かった。支えをなくしてしまった武に掛ける言葉の一つも思い浮かばなかった。
 だけど俺は今別に、怖くもないし何か言ってやらなきゃなんて焦りもない。
 ぶっ殺してやるなんて、武のいつものたわ言にしか聞こえない。
「――……ッ、お前がいなくなったら、俺はどうやって生きてったらいいんだよ……!」
 崩れ落ちるように、武が俺のベッドに顔を埋めた。
 看護婦さんは苦笑を浮かべて俺を見遣って、黙って席を外してくれた。俺が気を失っている間何があったのか知らないけど、武のこの調子は既に看護婦さんにお見通しなのかもしれない。
「武」
 声も上げないで、肩を震わせてベッドにしがみついている武の髪に触れる。
「お前、体の調子は大丈夫なのか?」
 できるだけ優しい声音を選んで言ったつもりだったのだが、武はそれを聞くと涙でぐしょぐしょに濡れた顔を跳ね起こして、ものすごい目でギロリと俺を睨みつけた。
 ……加減を知らないライオンの赤ん坊にじゃれ付かれる程度には、怖い。
「……よく、状況が飲み込めなんだが。説明してくれないか?」
 泣くな、という代わりに俺は武にお願いした。
 武は充分に俺を睨みつけた後で言葉を紡ごうとしたが、それはすぐに涙で濁った。二度、三度と同じことが続くと、見かねたように斜め前のベッドの男の子が言葉を挟んできた。
「沢村さん、二日前に救急車で運ばれてきたんですよ」
 中学生くらいの男の子は野球の雑誌を手にして広げながら、意識は野次馬根性丸出しで俺たちに向いていたようだ。同室には、もう一人、窓際で眠っている人しかいない。
「今日までずっと眠ってて、昨日の昼になってからその……藤井さん? が来て、ずっと着いてて」
 親切に教えてくれた少年を武が振り向いて、うるせえ、と怒鳴った。
「武」
 俺はその武の頭を叩いて少年に礼を言った。
 武が元気になったのは何よりだけど、ちょっと気が立っているみたいだ。
「しかし、全く記憶がないな」
 二日間ずっと眠ったままだといっても、少し身体がギクシャクする程度だし、そもそも救急車を呼ぶような大事になったら目が覚めそうなものだ。
 救急車に乗ったことも、入院したことも初めてな俺にはちょっと惜しいことをしたような気持ちにすらなった。
「睡眠不足と、……過労だって……」
 暢気に構えた俺に、武が震える声で言った。
「俺がここに来た時はもう点滴とか外されてたけど、……その前はもっと、たくさん管がついてたって、」
「そうそう、そこのハンバーガー屋の制服着たおじさんが一緒で、酸素吸入器とかついてすごいものものしい雰囲気だったよ」
 少年がまた補足してくれた。多分この部屋は軽症の人だけが一時的に休んでいるような部屋なんだろう、少年の雰囲気もまた、暢気なものだった。
「黙れっつってんだろ!」
 武が、斧を振り回すような声で怒鳴った。
「武!」
 慌てて俺が叱ると、武は首を竦めた少年の視界から俺たちを隠すように、ベッドの周囲についたカーテンを勢いよく引いた。それから俺を振り返って、乱暴に掴みかかると前歯が折れるんじゃないかと思うほどの勢いで唇を押し付けてきた。
「っ……、!」
 歯に当たった上唇が痛い、なんて笑い出せるような雰囲気じゃなかった。
 セックスも上手けりゃキスも上手い、巧みな技量なんていくらだって持ってるはずの武がこんな風に激情に駆られたキスをするなんて、俺はそれだけ武を心配させてしまったんだろう。
 俺は、武が唇を大きく開いて舌を捻じ込んでくる頃にはその薄い背中を両腕でしっかりと抱き締めた。
「は、っ……ン・ふ」
 鼻腔から微かに甘い吐息を漏らしながら、武は俺の胸にしがみついて何度も何度も俺の唇を啄ばんだ。ぺらぺらのカーテンの向こう側にその気配が洩れてしまうんじゃないかと心配は耐えなかったが、武が息を継ぐように少し休むと、それを邪魔するようにその唇には俺からもキスを仕掛けた。
 あんなに廃人のようだった武が、今ここにこうして息衝いていることが嬉しい。
「もう、……平気なのか?」
 唇を濡らして息をついた武の髪を撫で付けながら俺は恐る恐る尋ねた。
 平気な筈はないのだけど。あんなに憎悪の塊だった人間が、衝撃と殺意で一杯だった人間が、そんなにすぐそれを忘れられはしないだろう。だけど俺はそれを尋ねずにいられなかった。
 尋ねている俺も身を引き裂かれる思いがしたけれど、武の痛みや苦しみに比べたらこんなの、何でもないんだろう。
「――……ひびき」
 武の震える声は、ひどく聞き取り辛かった。
 だけど俺の胸に埋められた唇から紡がれる言葉は、直接俺の身体の深いところに刻み込まれるようだった。
「ひびきは俺の、……俺の全部だ」
 武はそう言って、一旦顔を上げた。俺の顔を見上げて、また泣き出すかと思うほど表情を歪めると、俺の胸に顔を押し付けた。
「本当はずっと、ひびきは俺の、初めて愛した人だと思ってた。初めて、どうしようもなくこの人が欲しいと思った。ひびきを俺のものにしたいと思った。
 俺は本当は、そういうのは嫌いだったんだけど、……生まれた時から俺は母親のモノだったし、金を稼ぐための俺の躰は俺の気持ちなんて全然関係ないモノだったし
 俺の気持ちだって、効率よく金を稼ぐために計算されたモノになっちゃったし、俺自身なんてなくなっちゃって、ただの玩具になった。だから、誰かをそんな風に思うなんて考えもしなかったし、"モノ"に"モノ"は必要ないから……
 でも、ひびきのことが欲しいと思った。ひびきが、俺のことしか見ない、俺の言うことしか聞かない、俺のためにしか動かない、俺のことしか考えない、ものになればいいと思った。
 俺のためだけにある人形みたいに、俺のことを愛してくれればいいと思った。それで俺も、ひびきだけのモノになれればいいと思った。
 だから金を返すことも迷わないで済んだし、ひびきが金を欲しかったらひびきのために金を稼いでもいいと思った。
 ひびきを好きだと思った。ひびきに飽きられるのが怖くて、だから好きって言いたくなかった」
 武は感情の昂ぶりを現すように徐々に口調を早め、そして緩めながら、自分の中にある全てを俺にぶちまけるように、だけど静かな声で、訥々と語った。
 また目に、涙が堪っている。俺は黙って武の髪を撫で続けた。
「……ずっと、ただ愛してるだけだと思ってた」
 涙で滲みそうになる声をぐっと堪えて、武が続ける。
「だけど本当はもっと、全部だった」
 そう言って武は、さっきよりずっと強く、俺にしがみついた。俺の胸の上に結ばれた拳が小刻みに震えるほど強く。
 俺は武の背中を抱きすくめて、包みこんだ。武が震えているのは寒さのせいじゃないけど、まるで武を暖めてやるように、優しく。
 武が泣いているのを見るのは何度目だろう? 最初は、金を返し終えてしまうと武が独白したあの夜だ。
 あの時も俺は、武をこうして強く抱き締めた。俺は、こうすることしかできないし、こうすることしか知らない馬鹿だけど、こうすることで武の何か、大事なものが守れるって、今でも信じてる。あの時だって今だって、武を守りたくて、俺は武を抱き締めてるんだ。
「俺はひびきがいなくなるくらいなら、死んだっていいと思う。俺の存在全てが、ひびきのモノだ。
 そこらにありふれてる比喩なんかじゃない、そんなんじゃない、だって俺はあの女を殺せなくても、あの女を殺してやるって目的を持たなくても、ひびきのために生きていられるんだ、
 だからひびきが、俺の全部だ」
 俺の胸に顔を擦り付ける様にして言った武の声は、多分他の誰にも聞こえていない。俺の胸から骨を伝って、俺の全身に響いているだけで、多分音としては他の誰にも通じていないだろう。もしかしたら、武は声にすら出していないかもしれない。こうして武が俺に強くしがみついて、俺が武をきつく抱き締めることで、初めて伝えられる「気持ち」なんだ。
「こんなの、とんでもない重荷だって判ってる。命をかけて愛すなんて、思ってたって言っちゃ駄目だって、でも
 どうかお願いだから」
 武は急に顔を上げた。
 胸にしがみつくのじゃなくて、俺に頬を摺り寄せるように、首に腕を絡めてきた。
「俺を拒否しないで欲しいんだ。俺を、否定しないで欲しい」
 か細い声。脆く、震える囁き。
「ひびきは俺の、全部だから」
 そんな風に頼まれるまでもなく、俺は武を拒むつもりなんてなかった。そんなことで拒むくらいなら、もっと早く武を忘れられるように努力できてるはずだ。俺はその努力すら、することを拒んだって言うのに。
「じゃあ、これでようやく」
 俺が妙に間延びした声で言うと、武は度肝を抜かれたように眼を丸くした。
 多分俺が感じていたように、武もこの言葉が声になって伝わってないかもしれないと感じたんだろう。そして、その言葉には送信する相手と受信する相手の気持ちが一つになってないときちんと伝わらないって判っていて、武はこの一瞬の内に、もしかして俺に何も通じていないのかと思ったかもしれない。
 バーカ、そんなわきゃねぇ。
 俺は、それでも不安そうにはして見せない武の鼻先を短く吸って、笑った。
「やっと、ゲームオーバーだな」
 武が瞠った眸を大きく瞬かせると、たまっていた涙の粒が頬との上をぽろぽろと伝い落ちた。
「……もう白紙に戻そうごっこは終わりだろ? 藤井くん、改め…………武」
 俺はきょとんとしている武の様子が、あまりにも昔の、フジイくんになる前の武のまんまだったのが可笑しくて、思わず声を漏らして笑った。