深淵の天使(16)

 看護婦さんからの厳重注意を受けながら、翌日には退院することができた俺は、三日間もまるきり飯を食っていなかったという武とファミレスに寄って飯を食ってから、久し振りの明るい我が家へと帰ってきた。
「――……ッ、ぷぁ!」
 玄関に足を一歩踏み入れるなり、これでもかと言わんばかりの武のキス攻撃が俺を襲ってきた。
 ……覚悟はしていたけど、一応俺も武も、病み上がりなんだがなぁ。
 しかしファミレスで飯を食うまで我慢できたという辺り、武と言えども性欲よりは食欲だということなのか。
「ち、ちょっとタイム、武……っ、ちょっと待てって!」
 せめて靴くらい脱がせろ、と懇願しながらなんだか俺は情けないような、その究極の情けなさが幸せなような、とにかく脱力するような気分に見舞われた。
「やだね。俺たまってんだもん」
 容赦なく身を絡ませて来る武。そんな風に腿を撫でられたら俺だってその気にはなる、が、しかし。
 「物事には順序ってものがあるだろう。そんな、ソレしか頭にない青少年みたいにな」
 どうどう、と諌めながら武の身を引き剥がすと、武は玩具を取り上げられた子供――よりももっと激しい、餌を取り上げられた猛獣のように、俺に掴みかかってきた。
「しょーがねぇだろ、俺はひびきみたいな、後は枯れてくだけのおっさん予備軍とは違うんだよ」
 俺のシャツを無理やり引っ張って、引き裂こうとしながら武は俺の首筋に唇を押し付けてきた。だけど武がムキになればなるほど、その仕草には色気よりも子供染みた色合いが強くなる。欲情しているというよりは、くっつきたいくっつきたい、と駄々を捏ねる子供のような。
「おっさんてなァ……いったい、お前と俺とどんだけ歳が離れてるって言うんだよ」
 仕方く実力行使で、武の体を引き摺りながらリビングのソファまで移動する。寝室まで行きたいところだけど、体力がない。……こりゃ本当におっさんかな。
「ひびきって25? 6?」
 ソファに倒れこんだ俺の首に両腕を絡めて、口端に吸い付きながら顔を窺ってくる武の髪を撫でる。
 こうして当たり前のように密着しているのなんて、いつ振りだろう。指先から、胸の中心から、痺れるように幸福感が滲んできて、擽ったい。
 ソファの上の腰をずらして、武に顔を向ける。6、と答えながらその滑らかな頬に掌を這わせると武はそれだけで幸せそうに双眸を細め、掌に頬を摺り寄せてきた。まるで高貴な仔猫のようだ。キスしていなくても、セックスじゃなくても、ただ頬を撫でるだけで、武は充分嬉しそうだった。だけどその表情を見せられた俺が今度はキスしたくなってきて、濡れたように赤い武の下唇を啄ばむように吸う。武が、鼻で小さく鳴いた。背筋がゾクっと震え上がるような、甘い声で。
「26か、……じゃあ俺と、7つも違うじゃん」
 俺の唇をもっと求めるように、顎先を上げた武が何でもないことのように、答えた。
「――………………え?」
 聞き間違いかと思って、俺は念のために、聞き返した。
「7つ違い。
 だって俺、まだ19だもん」
 もうすぐ20だけど、と言いながら俺の上唇に吸い付こうとした武の額を、押さえる。武が目を瞬いた。
「お前、……そんな歳だったのか? まだ十代? 知らなかったぞ!」
 喚くように言ったつもりが、俺の声はみっともなく裏返った。腋の下に変な汗が滲む。
「うん、俺も言ったことない」
 さらりと言い捨てて、武は自分の額を押さえた俺の掌を取って、指を絡めた。
「でも、歳なんてどうでも良いだろ? 俺が十代だと、ひびきは俺のこと好きじゃなくなる?」
 そうじゃないけど、そうじゃないけど、でも。
 俺は言葉を失ったまま、心の中で頭を抱えた。大した問題じゃないんだが、しかし、衝撃的過ぎる。犯罪スレスレの年齢じゃないのか。
「ねえ、しようよひびき。しよう」
 うろたえている俺に、武が身をすり寄せてきた。
 俺が躊躇していることが通じてしまったんだろう。その声が泣き出しそうに震えた。繋いだ掌がしっとりと汗ばんで、俺の顔を覗き込んできた眸は俺の顔を見ずに首に擦り寄った。
「ひびき、したいよ。しようよ」
 まるでセックスでしか愛を確認できないかのように、心細そうな武の声。
 武の顔を俺から覗き込んで、俺はその唇をぺろりと舐めた。
「いや、折角だからもう少し話そう。……ほら、俺まだ病み上がりだし」
 ソファの背凭れに背中を沈めた俺が、武の手をやんわりと解くと、武は深く俯いた。
「……じゃあ、キスだけでも、しようよ。ひびきともっとたくさん、くっついてたいんだよ。嫌だ?」
 鼻にかかった声で、武が唇を震わせる。俺は武から解いた手で武の腰を抱き寄せて、俺の膝の上に乗せた。向かい合って、一番近くに武の顔が見れるように。
「また俺のこと引っ掛けようとしてるのか? ……嫌なわけがないだろう」
 俯いた武の額に俺が唇を押し付けると、武は手の甲でぐい、と自分の目頭を乱暴に拭った。
「当たり前だろっ? 何で俺がひびきの了承を得てキスしなきゃいけねぇんだよ、ひびきがキスしたくてくっつきたくって仕方ないみたいだからさ、全く困るよ、病人は早く寝ろよな」
 大袈裟に溜息なんて吐きながら、武は早口で捲くし立てた。
「毎度困らせて悪いね。俺は武のことが好きで好きで仕方がないから、ずっとずっと一緒にいて欲しいんだよ。困らせついでに、武は一生俺と一緒に暮らしてもらえるかな? 心の広い武なら仕方なく付き合ってくれるだろ?
 7つも年上でおっさん予備軍の俺が、もし武より先に死ぬことがあっても、武は武が死ぬまでずっと、俺のものだ。俺だけのものだ。――……そんな俺のお願いも、聞いてもらえるかな?」
 俺の言葉を聞く内、武は俺の膝を跨いだまま顔を覆うこともしないでぼろぼろと涙の粒を零して泣きじゃくり始めた。
 全く確かに、子供なのかもしれない。こんなに全身で幸せを表現できるっていうのは。
「まったく、……っいい年こいて、仕方ねぇ、な、……このおっさんは、……!」
 鼻を啜りながら途切れ途切れに憎まれ口を叩く武の顔を覗き込んで、唇を吸う。
 武は俺の頭にしがみつくように抱きついてきた。時に狂ったように、時に優しく、何度も唇を重ねなおして俺たちは口付けを続けた。そうすることで、伝わる言葉があると知ったから。
 溶けるように熱くて、全てを飲み込むような激しいキスはいつまでも止まる気配がなかった。武から仕掛けてきたキスが、武の満足を得る頃には俺が武を欲しくなるし、俺が武を食い尽くしてしまうと今度は武から俺に吸い付いてくる。
 このキスに終わりなんてない。好きだと思う気持ちに、底がないのと同じように。