天使の恋(9)

 夜、家に帰ると武はいなかった。
 別に珍しいことじゃない。仕事に行っているか――もしくは、いなくなったか、だ。
「……あー……」
 俺は物音一つしない静かな部屋に呟き声を漏らし、ソファへ体を投げ出した。
 疲れるのは確かだ。こんな風にいちいち、武がいなくなったのじゃないかと覚悟し続けることは。
 何日か置きにセックスをする間柄、しかし好きだの恋だの愛だのというものはなくて、躰だけの繋がりで、だけど欲望だけに純粋にもなりきれなくて。
 こんな状態で時折からかわれながら、傷つけられながら一緒に暮らして、それで俺はあいつのことが本当に好きなのか?
 そんなこともう判らなくなってきてる。
 武が俺のバイト先にぱったりと来るのを止めた時、あいつのことが気になって気になって仕方がなかった。だけどそれだってあいつにとっては特に意味のないことだったのだし、結局俺があいつと一緒にいることは、性のはけ口、それだけのためなんだろう。金であいつをいいようにしている、あいつの言う「客」、それと同じなんだ、俺は。

 『ねぇ、キョウ』
 軽やかな声で呼ばれて、俺は振り返った。誰だ?
 紅い唇が微かに笑う。肩まで伸びた黒い髪は風にさらさらと流れて、俺を魅惑した。
 『響、あたしのこと、好き?』
 黒目がちな瞳の下にふっくらとした皺を浮かべてどこか寂しげに笑ったその人は、知里だった。
 『ねぇ、好き?』
 ――ああ、好きだよ。
 俺が好きだった紺のワンピース。答えた俺がその姿を捉えようと腕を伸ばすと、知里は身を翻して笑った。
 『どこが好き? どうして好き?』
 俺は、知里の問いに言葉を失った。
 ――知らないよ、そんなの。
 答えられないと駄目なことなのか?
 『あたしは響が好きよ。大好き』
 踵の高いサンダルを滑らせていた知里が立ち止まった。知里は俯いて、同じ台詞を繰り返す。
 『響が大好き。ずっと一緒にいたい』
 ――俺も知里が好きだ。
 実際、母親の転勤がなくても年齢的なことを考えて知里と結婚を前提に一緒に暮らそうという話だってあった。
 『私がどれだけ響を好きか、知っている?』
 知里の長い髪は、知里の表情に影を落として、俺からその正体を掴めなくさせているようだ。
 知里がどれだけ俺を好きかなんて、判らない。目に見えないし、計ろうと思ったこともない。俺が好きな知里が、俺と同じように俺のことを大事に思ってくれている、それだけじゃいけないのだろうか?
 『響は本当は、私のことなんて好きじゃないんだわ』
 ――どうして? 答えられないからか?
 知里は髪を揺らし、首を左右に振る。
 『いいの。それでもいいから一緒にいて欲しいの』
 ――なんでそんなこと言うんだよ。俺は知里が好きだよ。
 俺がどんなに言い募っても、知里の大きな眸からは大粒の涙が零れ始めた。
 知里はいつも根拠のない不安と戦っていた。
 人一倍独占欲が強く、その上自分に自信がないからだと知里は言っていた。俺がいくら抱きしめてやっても、別れ際には必ず泣いた。
 『本当は響を困らせるつもりなんてないの。私も響のことを信じていたいの。だけど不安なの。私の不安をいつも否定して欲しいの……』
 そう言って自分の掌をきつく握り締める知里を、最初はいじらしいと思った。そして愛しいと思った。次第に可哀想と感じるようになって、しまいには疲れてきた。
 俺はいつまで否定していたら良いんだろう? そんなに俺は知里を安心させられないのか。知里を安心させてやろう、幸せにしてやろうと努力することすら無駄なのかと思うと、知里を抱きしめる腕の力も弱くなった。
 やっぱり、と知里が思ったかどうかは知らない。ただ、そうして徐々に俺たちの距離は遠くなった。
 知里の泣き顔は、もう見たくなった。

 目を覚ますと夜中の四時だった。
 どうやらソファに寝転んだまま眠ってしまったらしい。
「……夢か……」
 知里の夢なんて何ヶ月ぶりだろう。
 短く息を吐いて、ソファから立ち上がった。変な格好で寝てしまった所為で体中がぎしぎしする。軽く首を回しながらキッチンに向かおうとしたその時、玄関で物音がした。
「……あれ? ひびき?」
 武が帰ってきた。
「起きてたの?」
 暢気な声を上げて顔を見せた武の姿を廊下越しに見て、俺は何故だかすごく久し振りに武に逢った気がした。知里のことを思い出したりした所為だろうか。
「あ、もしかして俺の帰りを待っててくれたとかー?」
 武はそう言うと大声で笑った。大して面白いことを言っているわけじゃないのに。
「……酔ってるのか?」
 武が酔っ払っているのを見るのなんて初めてだ。もっとも、武が仕事から帰ってくる時間に俺が起きていたこと自体が滅多にないから、こんなことも珍しくはなかったのかも知れない。俺が知らなかっただけで。
「うんー? 何、俺が酔ってちゃ悪い? ねえひびき、お水ちょーだい」
 舌足らずな声音で要求を吐く武に俺は無言のまま、台所で水を汲んだ。
 武は玄関先に座り込んで、爪先に靴を引っ掛けてぶらぶらと揺らして遊んでいる。鼻歌なんて歌って、随分とご機嫌のようだ。
 同じメロディを何度も旋回させながら体全体で小さくリズムを取っている武に、水を運ぶと武は俺を振り仰いで、それを受け取った。
「へへ、ありがとう」
 艶かしいくらいに白い肌。その肌が酒のせいで少し上気して、余計に艶を帯びている。
 俺は、目を逸らした。
 その時、武の手首に擦過傷を発見してしまった。
「これ、……どうしたんだ?」
 玄関は暗くてよくは見えなかったが、赤くなった手首には皮膚が破れ、内出血が激しい。一見してすぐに、少し転んだ程度のものじゃないことが判った。その不自然な傷は手首をぐるりと一周していた。
「おい、これ」
 俺が武の服の袖を引くと、蚯蚓腫れのようになった鬱血の後は腕にもいくつか走っていた。
「武」
 何も答えない武に繰り返すと、武が級に俺の腕を振り払ってコップを玄関先の廊下に置いた。
「……俺が酒飲んで帰ってきたことに、何か感想ないの?」
 玄関に武の靴が音もなく落ちた。それを見詰めた武の視線は長い睫に遮られて、まるで見えなかった。
「……珍しいな」
 俺は頼りない声で呟いた。武が、怖いと感じた。
「他には?」
 武の視線が動いた。暗く、虚ろな瞳が俺を射抜く。その目はもう酔ってはいなかった。
 武が怖い。
 今にも壊れてしまいそうで。今にも、武が泣き出しそうで。
「三千万もの借金負って、家賃も食費も他人に頼ってる人間がよく酒なんか飲む金あるな、って――言わないの?」
 武は声を詰まらせた俺から視線を外して、また俯いた。
 俺は何か圧迫されていたような気分から解放されて、一つ息を吐いた。
「けど、もう、あと八十万……返せそうなんだ。明日にでも」
 そう言った武の声は、だけど相変わらず脆さを帯びていた。
「今日のお客さんやたらと金払いが良くてさぁ。八十万なんてあっという間だよ」
 一変して武が陽気な声を上げた。笑い声すら含んだその声が、暗い室内に虚ろに響いた。
「――SMまがいのことをして?」
 俺は、その場に座り込んで深く目蓋を閉じた。
 武の表情が強張ったのが、目を閉じていても判る。
「……何で?
 SMだってセックスだって同じだろ。SMなんてねちねち舐められたりしないし、別にどっちが悪いとかそんなことないだろ」
 武は不器用に笑い声を繕いながら反論した。
 借金のことも躰を売ってそれを返済していることも、武が何とも思っていないようだったから俺も何とも感じなかった。
 だけど今夜は違う。武はそれが嫌で、でも金のために仕方なく、やったんだ。
 俺に武の仕事を咎める権利なんてない。それなのに苦しい反論をする武が痛々しい。
 そんな風に弱味を見せるなら、やらなければいいのに。帰って来なければいいのに。
「……けど、借金を返し終わればひびきも俺の世話焼かなくて済むんだよ。悠々自適な一人暮らしに戻れる」
「俺は」
 俺は武の言葉を遮るように口を開いた。体が重い。気持ちと連動するように。
「お前がいなくなれば、親元に引っ越すから、別に……」
 思考は働いていなかった。思い浮かぶ言葉を唇に直結させて言葉を紡いだ。武のためにここに残ってるなんて、普段だったら言うつもりもなかったのに。
「そう……か。じゃあ俺のせいで、ひびきわざわざここに残ってるんだ。……ごめんね」
 やけにしおらしい武の台詞。らしくないな。
「……ひびき?」
 武の声が、すぐ近くで聞こえた。
「眠っちゃったの? ひびき」
 眠ってはいなかったけど、返事をするのも動くのも面倒で、俺は眠っている振りをした。