天使の恋(10)
武は眠っている――と思われている――俺の横に座り込んで煙草を咥えた。
暫く辺りには台所から響いてくるモーター音と、室内のどこかにある時計の針の音だけが聞こえていた。静まり返った中で武の傍らで目を瞑っていると、本当に眠りたくなってきた。
武が大きく紫煙を吐いた。その音は、溜息に似ていた。
「……ひびき」
俺を起こそうとしているわけでもなく、俺が起きていたって聞こえるか聞こえないか判らないくらいに小さな声で武が呟いた。
武の手が、フローリングの床の上で俺の手に重なった。
熱い体温が流れ込んでくる。
「俺は、十六の時から借金を返すために頑張ってきたんだ。……それを、明日にでも終えることが出来る。俺は、自由になる」
武のか細い声は更に震えて、弱くなった。泣いているかのようだった。
「俺は中卒だし、世間の何も知らない。恋人だって作ったことないんだ。金のために寝食を忘れて働くことや、金のためにセックスをすることだけを覚えて、俺は」
武の消え入るような声を掻き消すほどの大きな音を立てて、武の涙が床に落ちた。
「明日、借金を返し終えたらどうやって生きていけば良いのかまるで判らない……」
声を詰まらせながら、武はとうとうすすり泣き始めた。武が俺の手に重ねた指は、それでも決して俺を握り締めはしなかったけど、俺は――
「……、ひびき!?」
武の手を握り締めて、声もなくむせび泣いた武の肩を、抱き寄せた。
「何、……眠ってたんじゃな、なかったの?」
俺は何も答えず、答えない代わりに武を抱く腕に力を篭めた。相変わらず思考は停止したままで、そうすることしか思いつかなかった。
俺はいつもそうだ。知里のことも、俺は抱きしめることしか知らなかった。
それでも武は俺の腕の中でじっとしていた。やがて、武の方が先に俺の腕の中で泣き疲れたように眠っていた。
目が覚めると、もう昼過ぎだった。
シフト通りに休みを得ていた俺は、夜の内に運んできた武がベッドの中で眠っているのを確認すると朝食――というより昼食を作りにキッチンに立った。
玉ねぎとニンジンがある。卵もパン粉もある。挽肉がないけど、牛肉のこま切れがある。これを叩いて挽肉にすれば、ハンバーグが作れるか……。
俺は長く考えずに牛肉を冷蔵庫から出した。挽肉になるまで細かく切り刻み続けるのは根気がいることだが、悪くない。ちょっと荒引きテイストなのも美味いに違いない。
材料は最低限のものしかないし、そんな凝ったものなんて作れないけど、料理なんてものは、要は気持ちだ。
俺が張り切ってハンバーグを作っていると、武が起きてきた。まな板を打つ音が煩かったのだろうか。
「……お早う」
真っ赤に泣き腫らした眼を細めて、武は笑った。
お互い何も言い出さない、無口な食卓。
それを最初に破ったのは武だった。
「このハンバーグ、美味いよ」
にっこりと、でも弱々しく、武が笑う。
「……ちょっと焦げたけどな」
俺も苦笑して答える。
「いや、そこがまた美味い」
武が箸の先を揺らしてフォローした。
「無理しなくても良いんだぞ」
「じゃあ残す」
なーんてね、と言って武は最後の一口を平らげた。
「ひびき、このハンバーグまだ残ってんの?」
綺麗に食べつくした空の皿を重ねながら、武は言う。
「ああ」
俺が答えて、会話が終わる。
俺は、じゃあ今日の夕飯もハンバーグだな、と言えない。
武も、じゃあ今日の夕飯もハンバーグが良い、と言わない。
沈黙が再び訪れた。
俺の目の前にいる人間が、俺から金を騙し取って、それを鼻先でせせら笑った、あの腹立たしい『天使』だと思えなくなってきた。
俺をからかって、軽口を叩いていたあの武とは違う。
踏み込んではいけない、踏み込みたくないと思っていたのに、俺は踏み込んでしまったのだ。あのまま眠った振りをしていれば良かったのに、そもそも昨日あんな時間に起きていなければ良かったのに、セックスと表面的な会話だけで成り立っていた俺たちの関係は脆く、崩れ去ってしまった。
俺は武を力いっぱい抱きしめてしまったし、武の泣き言を聞いてしまった。
もうセックスは出来ない。もう表面だけの軽口は叩き合えない。
「ごちそうさま」
俺は言って、重なった皿を持ってキッチンに立った。
――常に覚悟を決めていた事態が、もう、すぐそこにある。
次に武がこの部屋の玄関を出て行った時、再びその扉が武の手によって開かれることはないだろう。永遠に。
武が好んで着ていたシャツも結局は俺のもので、武が使っていた食器も武のものじゃない。
全てを置いて、武は身一つで出て行けば良い。
この部屋に取り残されて悲しむのは、俺一人だけだ。
「ひびき」
フライパンについた油を拭き取っている俺に、武がリビングから声を掛けた。
「服貸して」
武は、言った。