天使の恋(11)
――どうしてだ?
汚れたフライパンを持ったまま、俺は呆然とした。
「ひびき?」
俺の反応がないために、武はキッチンまで来て俺の顔を覗き込んだ。
どうして、もう帰って来ないのに俺の服を持っていくんだ。武の服だって一着や二着はあるのに。
俺の服を返すつもりがないなら、俺の物と自分の物の区別もつかないような図々しさを持っているなら服貸して、なんてわざわざ断る必要もないのに。
「……借金、終わらせに行ってくるよ」
武は、ぎこちない笑顔を浮かべて言った。
昨夜武の唇から漏れた弱音が俺の脳裏を過ぎる。同じ唇から漏れた、借金のない自分の人生を憂う言葉。
「借金……」
俺は虚ろに繰り返した。
昨夜とは違う。俺は、自分がこれからどんなに無責任なことを言おうとしているか自覚があった。それを承知した上で、俺は自分の言葉をせき止めることが出来なかった。
「そんなに早く返済する必要があるのか?」
フライパンを持つ手に力を篭めた。
「返済できることが判ってるんだから、焦らないでゆっくり返していったら良いじゃないか」
俺がこんなこと言える立場じゃない。何も知らない俺がこんなこと言っちゃいけない。判ってる。けど、
武を引き止めたいわけじゃない。ただ、武を護りたい。漠然とそう思った。
躰を売ることよりも自分の明日を不安に思う武を。
「……ありがとう、ひびき。でもね、」
武は目蓋を伏せて、笑った。
今にも消え入りそうな笑みだ。
「この借金はさっさと返しちゃいたいんだ。確かに、返し終わっちゃうことへの不安もあるよ。
だけど、返しちゃいたい。ずっと、昔の俺を引き摺っているような気がしてたから、早くそれを終わらせたい。
そういうジレンマも、あったんだ」
俺は返す言葉を失った。
俺はなんてつまらないことを言ってしまったんだろうと後悔した。何も知らないくせに、とんでもない思い上がりで、なんてことを言ってしまったんだろう。
急に恥ずかしくなった。何が武を護りたいだ、結局俺は、苦しむ武自身を見て見ぬ振りして、自分のそばに置いておきたかっただけじゃないのか。とんだ傲慢だ。
「ありがとう、
ひびき」
視線を上げて俺を見据え、穏やかな表情で微笑んだ武の言葉は、さようなら、と聞こえた。
俺は歯を食いしばる。汗の滲んだ掌で、徐に武の肩を掴んだ。
「武」
また頭が真っ白になる。
もう駄目だ。何も考えられない。
俺がこんなにも武が好きだってバレても良い。笑われても馬鹿にされても、鬱陶しいと思われても構わない。
「今日の夕飯は、」
俺は武が好きだ。男だけど、何で好きかとかどこが好きかとか判らないし、ひどく子供染みた感情だけど、武が仕事で付き合ってくれてるだけなのにマジになりやがってと見下されても仕方がない。俺は武が好きだ。一緒に過ごせる時間をみすみす手放したくない。
覚悟なんて、クソ喰らえだ。
「今日の夕飯は、――何がいい?」
からからに渇いた咽喉の奥から絞り出した言葉は、しかし、なんて情けない台詞だろう。
武は暫く俺の切羽詰った表情をきょとんと眺めていた。
それから、……俺はこんなに美しい表情を見たことがない。出来ることなら一秒一秒、それよりももっと細かい単位でその表情の動きを切り取って、カメラにでも収めておきたいくらいの、完璧な美しさで武は微笑んだ。
「ハンバーグがいい」
長い睫に縁取られた眸を柔らかくほころばせ、ふわりと光りを纏ったような――或いは光りそのもののような肌を弾ませて、その場の空気をも暖かくさせるような、吸い込まれるような笑みだ。
やっぱり天使だ。天使じゃなければ妖精だ。とにかくこの世のものとは思えないくらいになんて、なんて、美しい。
「パティ貰ってくるか?」
俺が唇の端を上げて意地悪く言うと、その唇の上を武の舌がなぞるように口付けた。
「ひびきのお手製だよ。ひびきの手で捏ねたやつ」
「アレは挽肉から作ったんだぞ」
俺がわざとらしく胸を張って誇ると、武ははにかむように笑って俺の首筋に顔を伏せた。陽だまりのような暖かさが、武の体温が、俺を包む。
「夕飯は何時? 俺、すぐに帰ってくるよ」
そう言って武は、俺の背中を抱きしめた。