天使の恋(12)
実際、武はものの四、五時間で帰ってきた。
「ただいまぁ!」
と張り上げた声はいつもと同じように高らかで、
「あんなの、返し終わっちゃえばなんてことナイよね。サラ金のお兄ちゃん達ともこれっきりかと思うと旧知の友人を失うような、そんな感じしてさー、
俺、躰売るようになって稼ぎ始めてからすごいお利口さんだったから兄ちゃんたちとも仲良くなったしさー」
よく喋る唇。俺の服を着た武は顔面に笑顔を貼り付けて、玄関から真っ直ぐキッチンに向かった。
勝手知ったる図々しさでうちの冷蔵庫を開き、ミネラルウォーターをグラスに注ぐと一気にそれを飲み干した。
武の喉仏が定期的なリズムを刻んで、上下する。最後の一滴までそれを飲み下すと、武は派手な音を立てながらシンクの上にグラスを置いた。
武は、リビングの俺に背を向けたまま言う。
「ねえ、ひびき」
今まで、俺が聞いたこともないような声だった。
「……しようよ」
武がどんなに笑顔を装っていたって、高らかな声を張り上げていたって、空気が痛い。
ピリピリと皮膚を刺すような空気。武の中からとめどなく溢れてくる不安。
武の、借金にまつわる過去を俺は知らない。だけど、武は借金を返し終えるより、借金を抱えていた時の方がずっと安定していたんじゃないか?
武が、借金を返すために躰を売ることを本当に何とも思っていなかったかどうかは知らない。借金を抱えていた時の方が良い、なんて、何も知らない俺のいえることじゃない。
でも、現に今、武は不安定だ。
「ねぇひびき、しようよ」
武は俺を振り返らずに言う。
「……しないよ」
俺はリビングで俯いたまま答えた。
俺と武のセックスは恋愛じゃない。ただの商談だ。
武はもう躰を商品化する必要はないのだし、俺は武を抱きしめてしまった。この腕の中で泣かせてしまった。武がここから出て行こうとするのを、引き止めてしまったんだ。
「何で?」
武がゆっくりと、俺を振り返った。俺はただ苦笑して見せる。
じゃあどうして、武に出掛けのキスを許したんだろう。武は何故、あの時俺にキスをしたんだろう?
「ひびき」
武はその場でずるずると腰を落とし、座り込んだ。
「ひびきは俺に、ひびきって呼ばれるの、嫌?」
何だ、突然。
俺は突拍子もない武の言葉に瞬いた。
「嫌じゃない」
俺が答えると、武はようやく顔を上げて、笑った。
翌日から武に何も特別なことはなかった。
特別な行動も、特別な変化も。
ただ以前より空々しい、上っ面だけの会話が繰り返され、俺達の間にセックスはなくなり、武は早寝をするようになった。
俺のバイトは相変わらずで、店長にいい加減社員になれなんて言われながらも「いつかは引っ越すのだから」などと言ってバイトのままでいた。
「ホット下さい」
そんな中である日、武がいきなりバイト先にやってきた。
店長は久し振りに見た武の姿に思わず厨房から出てきた。
「どうした? また夕飯のリクエストか?」
この間はハンバーグで、今度は何だ。
「ううん、今日は夕飯要らない」
俺に百円玉二つ渡しながら、武は言う。
「出かけるから」
武がそう言えば、俺は、そうかとしか言えず、釣銭を手渡した。
もう決して二度と、踏み込まない。
借金を返し終えた武がこれから何を新たに始めようと、俺の知るところではないのだ。
俺はただ寝床を提供し、食べ物を作ってやる。それだけで
「ひびき、タバコ頂戴」
ああ、ハイハイ。
バイトを終えて帰ると時間は23時を回っていた。
誰もいない部屋に帰ってくるのは久し振りで、俺は暫く部屋の中央に立ち尽くした。
そう言えば武は今日、自分の服を着ていた。いよいよもう、帰ってこないんだろうか。
俺は一人分の夕飯を作るのが面倒で、カップラーメンに湯を注いだ。
本来男の一人暮らしなんてこんなもんだ。今は成り行き上、驚異的に主夫並みの食卓を維持しているけど、食事を作るのが趣味というわけでもなかったんだし、本当だったらこんなもんだったんだ。
味気ない麺を啜りながら、ただ垂れ流しているだけのテレビ番組を見て、日付が変わった。
シャワーをざっと浴びると急に眠気を覚えて俺はベッドに横になった。
このシーツの上に武が一緒に眠っていたのはもう大分昔のことだったような気がする。そんなことを思い返さないように、祈る気持ちで目蓋を閉じると俺はすぐに意識を失った。
目が覚めたのは、その数時間後だった。
いつもしっかり夕飯を食っていた人間がカップラーメン一つで満ち足りるわけがないのだ。一旦目が覚めてしまうと、空腹感を覚えてなかなか寝付けない。
いっそのこと起きてしまって、何か食べるか酒を飲むかしようか? しかし三時間ほども熟睡してしまった後では軽食の後で寝直すにも、このまま起き続けるにもどうも中途半端だ。
そうこう考えているとますます頭が冴えてくる。
もう眠るのは諦めようかという方向に気分が据わり始める。
武はまだ帰っていないようだ。
ますます"終わり"か。
こうして実際その時が来てみると、そう大したことではないような気が――今は、している。
一体この家で武とどれだけの時間を共にしてきたんだろう。思い返すと、それは急に現実味を失った。
全部俺の夢だったような気がしてきた。心地の良い、幸せな夢。そうだったならどんなにか良い。
カタン、と夜の闇の向こうで小さな物音がした。
次いで、ドアの開く音。
――武だ。
武が帰ってきたのだ。
何故?
今まで何処に行っていたっていうんだ。
俺はベッドから跳ね起きて、玄関に向かった。
「……ひびき」
玄関の明かりも点けずに立ち竦んだ俺に気付いて、武は少し驚いたようだった。顔色までは判らないが。
「起こしちゃった? ごめん」
武は玄関先にしゃがんで、靴を脱いだ。
何処に行っていたのか、なんて、そんなことはまさか訊けなくて
俺は馬鹿か夢遊病者かのようにただそこに突っ立っているだけだった。
「はい」
靴を脱ぎ、フローリングの床に一歩上がりこんだ武は俺に、尻のポケットから万札を数枚抜き出して、渡した。
「借金返済後の初入金」
そう言って武は俺に札を握らせ、笑った。
「入金……?」
呟いた俺の横を、武は通り過ぎようとした。
その肩を、掴む。
「この金、どうしたんだ?」
どうして俺に渡すんだ?
武の金に触れたのなんか初めてだ。
「一晩で作ってこれる金だよ」
武はそう言ってまた、笑う。
その顔は灯りのない部屋で白く浮かび上がるように見えた。そのくせ、表情は判然としない。
「安心して、ひびきにしたみたいに黙って盗ってきた金じゃないから」
ちゃんと、払ってもらった金だから。――武は、そう言った。冗談のつもりかもしれない。
「……要るか、こんな金」
俺は声を絞り出した。腹からこみ上げてきたその声は呟き程度にしかならなかったけど。
武はそんなにも、自分の躰を売ることを望んでいるのだろうか? その行為を何とも思っていないことと、望んでいることとは違う。
「どうして? あげるよ。もう俺、金必要ないし」
武は俺から顔を逸らし、口先だけで笑ったような吐息を漏らした。
「要らねぇよ、こんな金」
俺は掌の中の万札を握り潰して、武の足元に叩きつけた。
「こんな金とは何だよ。人が稼いできた金を――こんな金でもどんな金でも、金には変わりないだろ? 現に俺は"こんな金"で三千万返しきったんだ」
武は声を荒立てることなく、淡々と言った。
「ああ、でも……武が稼いできた金を、どうして俺が受け取らなきゃいけない?」
武を好きだって思って、仕方がないのに、どうして俺が?
「――ッ、だってひびきは俺を抱かないだろう?!」
武が突然、声を張り上げた。
「何、――」
武の肩を掴んだ俺の手を、乱暴に振り払って向き直る。
「ひびきは俺を抱かないじゃないか……っ、宿泊代にやらせるって言ってたのに、――だから、金で払えばいいだろ? 宿泊代」
弱々しい動物が震えながら噛み付いてくるような妙な迫力に、俺は言葉を失った。
「……ひびきは俺のことをどういう人間だと思ってるか知らないけど、俺はセックスして金を貰うこと、そんなに嫌でもないんだよね。
だって俺セックス大好きだもん、気持ち良いの好きだから――」
「だったら抱いてやるよ!」
俺は、武の言葉を遮って怒鳴り声を上げた。
廊下の壁に武の身を叩きつけるように掴み、縋りつくような気持ちで。
「俺のセックスは上手いんだってな、だったら俺がやってやりゃあ良いんだろう!? 宿泊代にもなる。一石二鳥だ」
畜生、俺ばっかり馬鹿を見てやがる。
武にとってセックスは恋愛じゃない。ただの商品だ。
俺の気持ちなんて武にとっては、何の意味も持たないんだ。