天使の恋(8)

 雀の声がする。
 意識が朦朧とした中で、俺は左目を薄く開いた。窓から差し込んでくる柔らかな日差しと、その光を背にして心地よい眠りの中にいる武の寝顔が見えた。
 視線だけを巡らせて、枕もとの時計を見上げる。短針は10時を指そうとしていた。
 朝食を抜いてしまうことはあまりにもいただけないが、夜の遅い仕事をしているとどうしても、食事のリズムがずれ込んでしまう。今起きても、本日の一食目は昼食ということになる。
 徐々に意識が目覚めてくる。今日の食事は何にしようか。
 無意識に伸びをしようとして、俺は手足の自由が聞かないことに気付いた。……これは寝相が悪いというのか? 武の腿に両足を挟まれ、片腕は武の頭の下に、もう一方の手は武の胸元にぎゅうと抱きしめられていた。俺は彼のぬいぐるみか何かか。
「おい、武」
 本日の第一声がこれか。
 起こすつもりは無かったが、このままでは俺が起きられない。ひいては武の目が覚めた時に食事が作れていなくて、結局文句を言われるのは俺ということになるのだ。
「武、……おい」
 無理に解こうと思えば解けないことも無かった。しかし黙って身を離したらそれはそれで気付かれた時に怒られそうな気がした。
「ン、……ぁー……ひびき……?」
 目を開けようとしているのは判るが、目蓋が張り付いたようになって開かないのだろう、そんな表情をした武がくぐもった声で答えた。
「俺を自由にしてくれ」
 全裸の武が身じろぐと、武の両足に挟まれた俺の膝の辺りに濡れた武の肌が擦り寄った。朝っぱら何さらすんだ、と俺は急激に目が覚めてくるのを感じた。
「ン――……ぁ、……ふ、……お早う」
 暢気に欠伸をかまして、武は俺の言葉には何一つ応えようとしない。
「おい、武」
 武に抱え込まれた腕を揺らし、催促すると武はますます身を摺り寄せてきた。何なんだこいつは。
「お早う、じゃなくて。起きろよ。メシつくらねぇぞ」
 武は抱き枕か何かと勘違いしている俺の首筋に鼻先を埋めたまま寝言のように何か呟いた。献立でも聞かれているのかも知れないし、まんま寝言かも知れない。俺には聞こえなかった。
 最近、武は俺に心を許しているんじゃないかと感じる時がある。
 俺の思い違いに過ぎないかも知れないが、こういう時、武は俺に俺に甘えている――そう思う。好きとか嫌いとかではなく、甘えられていると。
「ひびきィ」
 鼻先を俺の肌に擦り上げ、肩の上に自分の顎を乗せて欠伸交じりの息を吐き出した武がようやく明瞭な声で――しかし眠気をたっぷりと含んだ気だるい声で言った。
「昨日の、す……っごい、よかったよ」
「!」
 耳元で紡がれた声は吐息交じりに掠れ、まるで昨夜の情事を思い出させるような艶を帯びているように聞こえた。
 突然何を言い出すんだ、こいつは。
「もう、ひびきのセックス大好き。骨までとろけちゃうかと思った……」
 そう言って、小さく笑う。武の柔らかい髪が俺の首筋を擽り、俺は背筋に這い上がるぞくぞくとした感触を抑えるので精一杯になった。
 慌てて生唾を飲み下す。無理やり、手足を振り解いた。強引にでも身を引き剥がさないと、鼓動の速さが武に伝わってしまう。
「……ひびき?」
 俺が飛び降りるようにしてベッドを逃げ出すと、武は細い腕を中にぶら下げたまま俺の顔を見上げた。
「シャワー浴びてくる」
 俺は武に自分の身を見られないように背を向け、寝室を文字通り逃げ出した。
 お前は暫く起きてくるな!
 
 武が俺の家に転がり込んできてから二ヶ月。いついなくなってもおかしくない、と常に覚悟をしているのに、武は一向にいなくなる気配を見せなかった。
 かといって武の少ない荷物が増えるわけではなく、武の気まぐれが少し長続きしているだけ、そんな感じだ。
 武が俺に甘えているように感じるのだって、ただの気まぐれ。俺だけが特別なわけじゃなくて本来がこういう奴なんだろう。それくらいにしか思わないようにしている。
 母も店長も、俺がずっとこっちに住むように思い始めたようだが、そんなことはない。武の気まぐれが終わってしまったら、俺ももうここに住んでいる理由はなくなるのだ。
「……はい、……はい。あぁ、はい。……そうですね、はい。はーい、それじゃ、また」
 俺が熱めのシャワーを浴びてバスルームから出てくると、起き出してきていた武はリビングのソファで電話をしていた。別に聞くつもりは無かったが、携帯電話の通話ボタンを切った武と目が合って
「サラ金屋さんから」
 武は電話を掲げて見せた。
「今月の支払いもオッケーですってさ」
 武は自分が抱えている借金に対して、まるで何でもないことのように言う。無理にそうしているのか、本当に何とも感じていないのか、俺には判らない。
「ひびきのおかげですー」
 目覚めから上機嫌な武は、ソファで両手を広げ、俺に抱きつくような素振りを見せながら笑った。
「家賃とか光熱費って案外バカにならなくてさ。こんなシゴトしてたら、肉付き悪いと洒落にならないし。風邪とかひいても困るしね、……何せ肉体労働ですから」
 当然ソファに歩み寄ろうとはしない俺に、広げた両腕を落とすと武は言った。
 寝床をくれてやって、適当にバランスの取れた飯を出す俺のおかげだってことか。
 俺と武の関係は、ほんのそれだけのつながり。
 俺は武の生活をアシストして、武はその謝礼に自分の躰を俺の好きなようにさせる。いわば大人の――不純で不毛、ひどく爛れているけど妊娠の心配だけはないっていう、ギブアンドテイク。
 お互いが仕事に出ている以外の時間帯でヤってない間は適当なことをつらつらと話すだけ。相手に踏み込むような真似は決してしない。何となく時間を浪費していくだけ。
 武にとってそれは、単に俺を生活の糧として見ているだけに過ぎず、俺自身に興味がないからなんだろう。だけど俺にとって武と表面的な付き合いしかしないことは重大な意味があった。
 一つは、俺が武に立ち入ることで武に鬱陶しいと思われないため。
 もう一つは、うっかり武の中に踏み込むことで、これ以上後戻りできない状況にならないためだ。
 俺はもう充分引き返せないんじゃないかと思っている。それでも、躰だけの付き合いなら、武が俺に飽きるなり借金返済を終えるなりしてどこかに消えてしまえば、どうとでもなる。俺は武の何も知らない。連絡のとりようもないんだから、どんなにか苦しんでも、武を追う先も思い当たらないだろう。
「あと八十万……」
 ソファの上で項垂れた武が、ぽつりと呟いた。
 その声に我に返った俺が武の顔を振り向くと、武も俺の視線に気付いて笑って見せた。
 あと八十万――
 そう呟いた武の表情は、俺の知っているどんな武でもなかった。