天使の恋(7)
"こっちはシゴトなのに、マジになりやがってさ"
いつか言った武の言葉は、日を追うごとに俺の気を重くさせた。
悪かったな、そうさせるのはお前じゃねぇかよ。――そう言い返してやりたいけど、そんなこと言えるはずもなかった。
武にとっては一円でも多く金を巻き上げるための戦略で、三千万なんていう大金を返済するためには、それも必要なことなんだろう。
俺みたいにのほほんと暮らしてきた人間には想像も出来ないようなプレッシャーを背負って、今まで生きてきたんだろうから……。
"マジになりやがってさ"
と武は言うけど、ある程度はマジになってもらった方が好都合なこともあるのだろう。何度も高額で買ってくれる客がついてくれるのは有難いだろうし
――……じゃあ、俺は?
生活費が浮くくらいの利益しかないのに、それでも少しでも美味い飯を作ってもらうためには少しはマジになってもらった方が都合が良いんだろうか?
そのための"キスマークつけたのなんて初めて"発言で、勿論あんなのは俺を引っ掛けるための真っ赤な嘘で、その成果が今朝の半熟目玉焼きか? 大した成果だな。
結局俺にはその程度のことしか出来ないんだ。金もない、手の込んだ料理を作ってやれるわけでもない。
服貸してなんて言わなくても「じゃあ買ってやるよ」なんて言えりゃいいのに、それすら言えない。
安い服なら買ってやれないわけじゃないけど、俺には度胸がなかった。
これ以上武の荷物が増えることを恐れている。いつ武がいなくなっても、自分が苦しまないように。
俺は彼を引き止めておく要素を何一つ持っていない。いつ武がいなくなったって、もしかしたらあれは俺の妄想だったんじゃないかと思えてしまうくらい、その痕跡を残したくない。
実際、武がいるというこの状況が不自然で、いなくなったほうが正常な状態なんだ。
彼が俺の家に留まっているのなんてただの気まぐれに過ぎなくて、いつか武は姿を消すだろう。俺に何の予告もなく。
だけど、それでいいんだ。
それでいいんだ。
……イカン、心がささくれている……。
「どうしたキョウ、元気ないな」
カウンターに背を向けて胸を押さえた俺を心配したように店長が言った。手にはシェイクの原液。俺は苦笑しながら、それを受け取った。
「このまんまじゃいけねぇなあ、と……」
シェイクの補充をしていても、このコーヒーシェイクは武の好物だなどと考えてしまう。
バイト先と家の往復ばかりの毎日で、視野が狭くなっているんだ。
武がいついなくなっても自分が傷つかないようにと思っているのに、見るもの全てを武と関連付けて考えてしまう。そんな風に世界を狭めて武に没頭すること自体、武は厭うだろうと思うのに。
「はぁ?」
俺のぼんやりとした答えを受けた店長が素っ頓狂な声を上げた。
「いや、何でもないすよ」
俺は胸中で軽く首を振り、空いた容器を丸めてゴミ箱に捨てた。気合を入れ直して店の時計を見上げる。オフピークの内にトイレの清掃を済ませたら、じきに夕飯前の客足が増えるだろう。
「店長、三番チェック行ってきます」
声をかけて、厨房を抜けようと爪先を変えた瞬間、自動扉の開く音がした。慌ててカウンターに踵を返す。
「いらっしゃいませー」
景気よく挨拶をして客の顔を見る。と、武だった。
このヤロウ、人が折角仕事に励むぜって時にのこのこ現れやがって。
「ハイ、プレーンドッグとポテトのMサイズ、コーヒーシェイクのMでございますねー」
棒読みで接客し、レジに手を伸ばすと、武が首を振った。
「今日はホットだけで良いよ。シゴト行くの止めたから」
厨房でドッグ用のバンズに手をかけた店長も慌ててその手を止める。
「何だよ」
「何だよって何だよ」
武の小気味良い返しに、俺は思わず笑い声を漏らしてコーヒーを用意した。武の白い手から、157円を受け取る。
「仕事いかねぇのに来るなんて珍しいじゃん」
俺の覚えている限りでは、初めてのことだ。
俺がバイトに行っている間、留守番をしている武が俺の家で何をしているのかは知らないが、何処に出かけているでもないようだ。
「うん」
レシートを受け取る武が視線を落とし、そこで一旦言葉を切った。ついと、俺を見上げる。
……何だよ。
俺をからかう様子でもない武のふとした視線は、いくらその腹の内を知った今でも胸の中央を鋭く射抜かれるかのように俺を動揺させる。それほど、澄んだ綺麗な目をしている。
「煙草きれた。頂戴」
たっぷりと間を取った武が、のたまう。
あああああ、ハイハイハイ。何だよ畜生。ほんの一ミクロンでも何かしらの期待をしてしまった自分の馬鹿さ加減を思い知って、俺は一気に脱力した。
「お客様、お席の方で少々お待ち下さいね」
コーヒーカップの乗ったトレイを差し出して慇懃にお辞儀をする。はーい、と幼稚園児のように元気な返事をした武はいつもの席に着く。
どうせ俺はやらせてもらう代わりに武の言うことを何でもきく便利な奴隷ですから、煙草の一箱や二箱、何てことないですけどね。
店長に詫びを入れて、更衣室から煙草を持ってくると、武のテーブルまで運ぶ。
「ありがと。……あ、そうだひびき」
さっさと武の前を立ち去ろうとする俺の制服の端を掴んで、武は俺を見上げた。
「今日ね、俺ヒマだったから洗濯しといてあげたよ」
見返りを求めるでもなく、さらりと言ってのけた武の言葉に、俺は少々面食らった。
「……そりゃどうも」
答えながら、これもまた彼の気まぐれか? と思う。
気まぐれでいろんなことやって、気まぐれに俺のことを掻き乱して、いつか気まぐれに去って行ってしまうんだろう。
常にそう覚悟していないと、辛い。
「あのねー、だから今日の夕飯はハンバーグが良いなー」
見返りを求めていないと思った表情を朗らかな企み顔に笑ませた武が、にこやかに言葉を繋げた。何だそりゃ。
「パティでも持ち帰ってやろうか?」
ハンバーガーに挟むハンバーグを指して俺が意地悪に答えると、武は露骨にむくれて見せた。
「ひびきのお手製だよー、ひびきの手で捏ねたやつ」
おいおい、洗濯してもらっただけでそんな面倒なことを要求されるのか。勘弁してくれ。
「今日の夕飯は無理だ。帰ってからそんな面倒なことやってられるか」
溜息交じりに吐き捨てるように言って、武を横目に見る。
呆れた俺の視線の先で、武は過度に要求を押し付けてこない、子犬のような眸――即ち、俺が首を縦に振ると信じて疑わない無垢な眸で、じっと俺を見ていた。
「……………………ああ、今度の休みの日なら良いけど」
根負けした俺が唸るように言うと、武は「よっしゃ」と拳を固めて破顔した。
俺がもう一つ大きな溜息を吐いた時、買い物袋をぶら提げた客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
慌ててカウンターに戻ろうとした瞬間、俺は何かに引っ張られたように感じて背後を振り返った。
「おい」
武が、未だ俺の制服の裾を掴んでいる。
「あ、あぁ、ごめん」
武はすぐに手を離して、にっこりと笑った。