天使の恋(6)

 本気じゃないとは思わなかったが、本気だと覚悟していたわけでもない。まさか本当に、武が住み着いてしまうとは思わなかった。
 とはいえ、まだ信用は出来ない。
 俺のバイト先に通ってきていた時みたいに、いつまたぱったりいなくなるかなんて判ったものじゃない。
 またいなくなったら今度こそ、この家から引っ越そう。――そう決めているのに、武はいつまで経ってもいなくならなかった。

「あッ、……あ……ンぁ・ァあっ……あ、ア、ひび、……き・ィっひびき、イイ、……いい、よぅ……ッ!」
 発情期の猫みたいな甘い声。白い肌を高潮させて肢体を捩る武の尻を突き上げながら、俺は荒い息を吐いていた。
 だけどこれはただの"報酬"。
 どんなに乱れたって、どんなに悶えたって、涎を垂らして喘いでいても、決められた回数俺が射精してしまえば今夜の行為はそれでお終い。
 俺が夢中になって武の性感帯を触れようと、舐め啜ろうと、武は感極まった声をあげながら、全身を痙攣させてイキながらも、その裏で冷静に回数をカウントしてるんだ。
 今日は、前にやった日から四日ぶりだから四泊分の家賃として、四回まではヤルことが出来る――そんな風に。
 判っていても、俺は武が我を忘れるまで必死で貫く。指先をその肌に余すところなく這わせ、つねり、時には焦らしながら、武の滴らせる体液という体液を嘗め回して、俺の硬く漲った怒張で深く深く、武を突き、柔肉を捏ね繰り回す。
 武は柔らかい髪を振り乱し、この世の淫らと美を終結したような表情で今にも昇天してしまいそうなほどの嬌声をあげ、俺よりもたくさんイキ、涙を浮かべさえする。それは到底演技なんかには見えないのに、それでも回数が来ると武は腰を振って強請るのを止めて
「もう……駄目だよ、ひびき。もうおしまい、……ね?」
 たった一秒前まで俺を誘惑していた唇が、困ったように笑う。
「……おやすみなさい」
 やっぱり天使みたいに優しくて美しくて可愛らしい仕種で俺にキスをして、それでも俺と同じ布団で寝てくれる。
 俺は精一杯その細い肩を抱きしめながら、熱の冷め切らない布団に包まって眠りに就く。
 こんなことじゃ駄目だ、――そう、自分を戒めながら。
 
「おはようー……」
 眠さをたっぷり引き摺った重い口調で唸りながら、武が起きてくる。
 大きな眸も半開き、あんなに艶やかな髪もぼさぼさで、珠のような肌も思い切りくすんでいる。
「早くシャワー浴びてこいよ」
 着乱れた寝間着は俺が昨夜剥ぎ取ったものを適当に引っ掛けた格好のまま、垣間見える肌には俺が汚した白濁の乾いた跡さえ見て取れた。
「んー……。あ、今朝の朝ご飯、パンなんだ……。俺、目玉焼き半熟ね」
「目玉焼きなんてメニューに入ってません」
 他愛のない会話を交わすこの朝の光景もすっかり慣れたもので、昼過ぎになると俺がバイトに出かけ、夕方から気が向けば、武もシゴトに向かう。
 夜の内に帰って来ることもあれば、朝まで帰って来ないこともある。
 武は自分の荷物を殆ど持っていなくて、俺のところに居座ると言っても武本人がいなければ、武が一緒に住んでいるなんてことは夢だったんじゃないかとすら思えた。武の姿があるから、ああ俺は武と一緒に暮らしているのかと思うけど、やっぱりいついなくなっても不思議はない。
「ひびき、服貸して」
 カラスの行水という言葉がしっくりくるほど短い時間だけシャワーを浴びに行っていた武が、腰にタオル一枚で急に顔を見せた。
 俺は武に動揺を覚られないようにしながら、クローゼットを指した。
「今日シゴト行くのか?」
 裸なんて今更、見慣れた筈なのに。
「うーん、行こうかなー……」
 その時になってみないと判んない、と武は濡れた髪を掻いた。
「随分とお気楽な出勤態度だ」
 武がそうしているからなのか、俺は武のシゴトに対して軽い水商売くらいの意識しか持たなくなってきていた。俺だって武の客だったんだし、今だって立場的には大して変わらないのに、自分がやっていることを他の男もしているのだなんて想像もしたくない。
 それに、俺がそんなことを思わないほうが武も楽だと思う。
「だって俺社長だもんよ」
 服を貸してくれと言ったくせにクロゼットに向かうでもなく、武は笑って言った。
「ヒラでもあるくせに。……コーヒーで良いか?」
 紅茶が良い、と答えて武は俺が作ったサラダを摘み食いした。
「早く服着ろよ」
 武が持ってきた服なんて二着か三着くらいのもので、俺が貸してやることが頻繁にあった。武が華奢な所為で、貸せる服はほぼ限られてくるのだが。
「俺、今日はそれが良い」
 髪から滴った雫を鎖骨の辺りで拭ってから、武がおもむろに俺の胸元を指差した。このTシャツか? 何わがまま言ってんだ。
「こりゃ大きいだろう? お前には」
 ちょっと言ってみただけなんだろうと思って、俺はパンをトースターにセットした。紅茶のティバックを探す。
「ちょっと大きいくらいが良いんだよ。俺はサラリーマンじゃないんだからさ、ほら」
 戸棚を向いた俺のシャツを背後からグイグイ引っ張って、武は無邪気に言う。
「でっかいくらいの方が客を引っ掛けやすいだろ? そそるっつーかさあ」 
 そんなもんか? そんなこと初めて言ったんじゃねぇか、と思いながらも俺は仕方なくティーシャツを脱いだ。これ以上引っ張られたら堪らない。
「……あ」
 俺の脱いだシャツを受け取った武が、ついと俺の素肌の胸をなぞった。
「?」
 見下ろしても、鎖骨のすぐ上辺りのその箇所は丁度見え難い位置だった。
「……キスマーク」
 つけちゃった、と武は眼を細めて妖艶に笑った。
「……――ッ!」
 俺は慌てて口許を覆い、顔を逸らした。
 やばい。
 顔が赤くなったらさすがに、武に気付かれる。武を意識してるってことに。
 何だよ、今までそんなことしなかったくせに。……いつ付けられたんだか、全く覚えてねぇぞ。畜生。
 俺は武のシゴト上、付けちゃいかんと気を遣ってるっていうのに。
「これって、俺が付けちゃったんだよねぇ?」
 ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべながら、武が俺ににじり寄ってくる。
 他に誰がつけるっていうんだ、と言い返そうと口を開くと、武の微笑がすぐ間近に迫ってきていた。
「俺、キスマークなんてつけたの初めてかも」
 シャツを脱いだ俺の肌に、シャワーを浴びたばかりでしっとりと濡れた素肌を摺り寄せながら武は無邪気に言った。
 そんな些細な一言に俺がどんだけ傷ついているかも知らないで。
 そりゃああ行きずりの金蔓にキスマークなんか付けやしないだろうよ。俺だって、定期契約を結んだだけみたいなもんで、家賃と家政婦代と食費を浮かせるためにやらせてくれてるだけで、所詮はビジネスの関係だ。
 それなのに"初めてキスマークつけた相手"か。
 人の気も知らないでよく言えたもんだよ、全く。
「ほら、早く着るなら着ろよ。メシにするぞ」
 俺は武の肩をやんわりと押し返して、台所に踵を返した。
「この間のジーパン乾いてる?」
 武の返答も、もうすっかりいつもの調子。当たり前だ。あんなの、ただの冗談なんだから。
「ああ、向こうの部屋に畳んである」
 俺は台所でフライパンを手に取って、冷蔵庫から卵を取り出した。
 ――ああ、ハイハイ半熟ね。