天使の恋(5)
「成金のオヤジでさあ、金はくれるんだけどやたらとしつけぇんだよ。こっちはシゴトなのにマジになりやがってさ。付き纏うなっつの」
店長の気遣いで俺は早く上がらせてもらい、愚痴る武を渋々家に連れ帰った。
「俺の望むだけ金くれるって言うから500万くらい貰ってドカーンと大口返済しようかなとも思ったんだけど、あんなしつこい奴からそんなに貰ったら何されるか判んないから、貰わなくて本当に良かったよなー。
――あ、ひびきんちってここ? いい所住んでるんだ」
武は俺が相槌しか返さなくても、一人でよく喋った。暫く俺に顔を見せていなかったことなど気にもしていないようだった。
俺が、がらんとした部屋に武を通すと、興味深そうに室内を眺め回している。俺はその不自然な光景をちらと盗み見た。
信じられない。母のいなくなったこの家、いつも俺が一人で過ごしているこの家に彼が入ってくるなんて。しかも、一晩泊まるなんて。
――どうしたって、何か良からぬことを考えてしまう。
……金もないくせに。
「そのくせ大したセックスも出来ないしさー。しかも遅漏。オヤジには珍しいことでもないけどさー、遅漏でねちっこくて、割に合わないんだよね」
生活臭の染み込んだ室内をぐるりと見回した後で、武は勧めもしないのに気楽な態度でリビングのソファに腰を下ろした。
借りてきた猫のようになれとは言わないが、あまりにも気ままな猫のよう過ぎる。
「……どうして俺のところに来たんだ?」
お茶を淹れながら俺は尋ねた。
まるでよく知った友達みたいに"シゴト"の愚痴を零す。俺だってその客の内の一人だったっていうのに。
「俺が来ちゃ迷惑だった?」
ソファの上で身を捻り、俺を振り返った彼はにっこりと――俺がそうじゃないと言うのを判って、誇らしげな表情で――笑った。
ずっと音沙汰なかったくせに、なんて大した知り合いでもないくせに、俺はそんなことは言えない。いくら彼が気軽にしてくれていたって、俺が彼の何でもないという事実は変わらないんだから。
例えばこうやってサプライズを施すことも彼の作戦の一つなのかも知れない。少なくとも客の家に上がり込めば距離が近くなったと誤解するだろうし、ホテル代も要らないし。
その手にはのらねぇ。もう、金で人を買ったりなんてしない。
「……借金、少しは減ったのか」
仕方なく俺は、手元のグラスに視線を落として話題を変えた。
「うん、あと三百ちょっとかな」
順調じゃねぇか、と言いながらお茶を差し出す。
「ありがと」
俺の手からグラスを受け取った彼が不意打ちでふわりと微笑んだ。
うわっだめだ。やっぱり、駄目だ。
近くで、しかも自宅で、そんな表情を見ていられなくなって、俺は慌てて彼に背を向けた。
「……ひびき」
鼓動が弾む音を抑えようと必死な俺の背中に、彼の掌がそっと触れた。自分の身が強張るのが判る。みっともねぇ。
「ひびき、……宿代払おうか?」
彼が口にするお金は全て、そういう類で支払われるものなんだろう。つまりそれって――……
頭が真っ白になった。何も答えられない。
「宿代と、食費と……。
大丈夫だよ、家の中物色して金盗ったら犯罪だもん。やらないから」
ソファから立ち上がった武が、俺の背に身を寄せて、細くて眩しいくらい白い腕を俺の腰に緩く回してきた。
「あっ、……あのさ、ええと」
声が裏返った。何か、何か話さないと間が持たなくなるような気がした。押し切られてしまいそうだ。
「ひびき、どの部屋で寝てるの? 家族って何時帰って来る?
早く、しよう」
家族は帰ってこない。母は別の家で暮らしている。こんな広いマンションだから一人暮らしとは思ってないんだろうけど、俺を助けてくれる人も邪魔する人も、ここには来ない。
「ねえ、ひびき」
耳元で喋るな。
俺はヒビキじゃなくてキョウだ、そう言い返したくても、俺をヒビキと呼ぶのは彼だけで――その耳に慣れない名前が、余計に俺を煽った。
「……したく、ないの? 俺はしたいな。……ひびきと、エッチしたい」
笑い声こそ聞こえないものの、唇に笑みを刻んでいるだろう優しい声。からかってるんだろう、俺を。
「しようよ……、ねえ、ハメて」
吐息の混じった囁き声。しんとしたリビングで、消え入ってしまいそうな濡れた声が俺の耳にだけ響いた。
何でまた逢ってしまったんだ、と後悔にも似た気持ちが俺の中で渦巻いていた。さっさと引っ越してしまっていれば、こんなことにはならなかったのに。
「ひびき、……何か、言ってよ」
俺の腰に抱きついた彼が身を絡めながら、俺の顔を覗き込んだ。
「ひびき?」
無防備な表情で俺を仰ぐ。俺は、その顔を自分でも驚くほど冷静に観察した。
陶器のように白い肌ってのはこういうことか。傷一つなくて、まるで高級な人形のように現実味のない美しい肌。髪も柔らかそうな茶で、指に絡めたらきっとふわふわとして気持ちが良いんだろうと思わせる。目も茶色っていうかグレイっぽく見えるし、全体的に色素が薄めなんだろう。なのに唇ばっかりほんのり赤くなって――……。
「……ん、」
気がつくとその唇を吸っていた。
武の指が俺の頭を抱き寄せるように滑る。ねっとりと濡れそぼった唇は、容易く開いて俺を求めた。
「はぁ、……ッん、ン……」
我に返って止めようと思っても、もう武がそれを許さない。俺の舌を切なそうに舐め啜って、しどけなく身を絡ませ、摺り寄せてくる。武の唾液は何故だか甘く、麻薬のように俺の頭をぼうっとさせた。
「……ここで、する? 別に俺は良いけど、……家族は?」
武の手は手早く俺の服を脱がしにかかっていた。手馴れた手つきだ。
「家族はもういないんだ、別のところに引っ越していて」
目の前に晒された白い首筋が、口付けをしたことで僅かに汗ばんで見えた。俺はそれを舐めとるようにして武の首に鼻先を埋めた。
「もう帰って来ないの? すっと?ひびき、一人暮らしなの?」
嬉しそうな武の声に、俺は頷いた。
「なあんだ、じゃあ俺ずっとここに住んじゃおうかなぁ」
無邪気な声を上げながら俺の乳首に指を這わせた武を、俺はソファに押し倒した。武の湿った服を乱雑に剥ぎ取る。協力的な武のおかげですぐに俺の前には艶かしい透明感のある肢体が曝け出された。
もう、知るか。