天使の恋(4)

 聞いたところでどうなるわけでもない。俺の下らない野次馬根性だってことは判ってる。何百万もの金を、俺がどうにかできるわけじゃないし。
 だけど、気になる。
 どうしろっていうんだ、と苛々してくるほどに気になって仕方ない。
「最近あの子、来ないなぁ」
 店長が、また俺が怒り出すのかと顔色を窺いながらも言う。
 常連なんてもんじゃない。たった一週間と少し、通い詰めていただけだ。
 やっぱりもっと安い食事を摂ることにしたんだろうとか、俺の質問責めが嫌だったんじゃないかとか、考えても仕方ないことを考える。それとも、俺にしたみたいに他の男の金を騙し取って殺された――とか。
 考え始めるとどんどん嫌な方向に想像が働く。ますます気になってくる。
 あの、キレイな顔が脳裏にちらつく。
 憎たらしい口調も、俺を騙すあの「可愛らしい演技」も、もう二度と見たくないと思う反面、いつも通りの腹立たしい彼に会いたい、と思うことがたびたびあった。
 そりゃそうなんだろう。俺は最初から彼のことが好きだったんだから。
「……好き、……」
 唇に乗せて呟いてみると、それとも違う気がする。
 中学生の頃の淡い初恋みたいに、あいつのことが気になって気になって気になって、仕方がない。
 死んでいたらどうしよう、どこかに監禁されて酷い目に遭わされていたらどうしよう、なんて不吉な想像をするからだろうか。実際再会を果たせたところで俺はまた怒鳴り声を上げるに決まってるんだし、たとえ俺が本当に彼に惚れてしまっていたのだとしても、彼の借金返済のための手助けはしない。
 実際出来ないとも思うし、それでもほんの一部分だけでも払ってやれるという考えは頭を何度も過ぎるけど――もう一生、二度と、金でセックスを強いるような真似はしたくない。誰にでもだ。
 母親が出て行ってがらんとしてしまった部屋のソファの上で寝転びながら、俺は天井を仰いで強く決心を固めていた。
 その時、電話のベルが鳴った。
 『ああ、キョウ』
 受話器を取るなり、母親があんたいっつも家にいないから、とお決まりの小言を漏らし始めた。最近バイト続きだったんだと答えると大して興味もなさそうに相槌だけが返ってくる。
 『あんた、引越しの方はどうなってんの? する気あるの? ないならないで良いけど、自分で諸経費払いなさいよ』
 俺の返事は軽くスルーしたくせに、怒涛のように質問を浴びせかけてきた。俺の質問責めは母親譲りのようだ。電話のこちら側で苦笑を漏らした俺に、母親はちゃんと飯を食ってるのかだのとお小言を並べ始めた。
 俺の質問責めを嫌がっていたようには、見えなかった。
 煙草を吹かしながら、武は淡々と答えてくれたし――俺の希望的観測かも知れないけど。
 俺がこのまま母親の元へ引っ越してしまったら、彼の消息は一生判らないままだろう。万が一にでも彼の方から俺に逢いたいと思ってくれることがあったとしても、それでももう二度と、会えなくなるんだ。
 判ってる。そんな理由で俺がここにしがみついていたところで、もう逢えない確率の方が高い。彼が殺されたわけでも、金がないわけでも、俺の質問責めが嫌だったわけでもなくて、単に俺をからかうことに飽きただけなんだ、っていうことは判ってるんだ。
 たかが一週間ちょっと話しただけで、俺の心に彼の面影が色濃く残ってしまったけど、彼にとっては何でもない。何十人といる客の内の一人で、俺なんて一回しか客やってないんだし、印象なんてゼロに等しいんだ。
 そんなことは判ってる。
 『キョウ?』
 黙りこんでしまった俺を、母親の声が突付く。
「ああ、……俺もう少しこっち住んでてもいい?」
 馬鹿だって、判ってるけど。

 かといって彼と再び会うために特別何かをするというのでもなく――第一何をして良いのかも判らないし――毎日、いつもと変わらずバイトに明け暮れた。
 もうここに彼がくることなんてないって判ってて、彼を待っているというわけじゃなくて、他にすることがないからバイトをしていた。
 店長にいつ引っ越すんだと聞かれて、もう少し、なんて答えながら俺は日増しに落ち込んできていた。
 何が「好き」だ。
 本当にもう一度会えたとして、会ったって別に感動的な再会になるわけでもないし、下手したら忘れられているかも知れないのに、何をこだわってるんだろう?
 だって彼は男で、俺も男だ。
 たとえ本当に「好き」で、万が一もう一度会えて、向こうも俺を覚えていたとして、それでどうなるっていうんだ。
 せいぜい出来るのはまた彼を金で買うことくらいだ。十万出せば六回やらせてくれるって言ってたしなァ、そんなことを思っては俺は自嘲的に笑った。
 彼の借金返済は順調に進んでいるだろうか。切り取られていくカレンダーの枚数を数えては、俺は溜息を吐いた。 
 そんなことを、俺が気にしたって仕方がないのに。
 俺は彼を天使だと思った。その本質のタチの悪さも含めて、俺は彼のことを印象強く覚えているけど、彼にとって俺は、ただの通りすがりの他人のようなものだ。
「はよございまーす」
 店長が出勤してきて、俺は押し出されるような形で厨房からカウンターに移動した。
「今日は売り上げ低そーだなぁ」
 昼過ぎから今にも嵐が来そうな妙な雲行きになってきて、世間の人々は外出を控えているようだ。
「もー暇で仕方ないっすよ」
 窓の外の暗い天気を窺いながら、俺はぼやいた。今月の棚卸ももう一人で済ませてしまった。
「今日は早めに休憩入るか」
 店長の提案に適当に返事をして、俺は定時の温度チェックを始めた。時計が五時半を回り始めた頃、雨がようやく降り出した。
「ああ、降り出したなぁ」
 店長が厨房で伸びをしながら暢気に言う。
 雨はすぐに、叩きつけるような勢いになった。ますます店は暇になるだろう。この勢いじゃ本当に嵐になりそうだ。
 その時、店の自動扉をすり抜けるようにして客が駆け込んできた。
「ひびき!」
 一瞬その人が、何を叫んだのか判らなかった。
 だってそれは、俺の名前ではなかったから。
「ひびき、ちょっと匿って」
 びしょびしょの髪を頬に貼り付かせながら息を弾ませ、その客は店に飛び込んでくるなりカウンターの中にいる俺にしがみついてきた。
「あ、……君……!」
 店長が指をさし、声を上げた。
 髪は以前より少し伸びたように見えるが、その圧倒されるような美しさは変わっていなかった。武だ。
「匿う、って……」
 俺の口は、まるで自分のものじゃないみたいに自然に言葉を紡いでいた。人は驚くと、むしろ冷静っぽく振舞えるものなんだろう。
「ちょっと、いいから!」
 言うなり武はカウンターを越えて、俺の背後に身を潜めた。通り過ぎ様、夢中で顔を埋めた記憶の蘇る、武の匂いがした。
「ど、どうしたんだよ」
 久し振りに身を寄せたことも相俟って、俺は無闇にどぎまぎしながら背後の武を振り返った。俺に飽きたんじゃなかったのかとか、俺のこと覚えていたのかとか、無事だったんだなとか、いろんな感想が漏れてきて俺は一人、忙しくなった。
 武がカウンターの中にしゃがみ込みながら、唇に人差し指を押し当てる。その時、二人目の客があった。
「いらっしゃいませ」
 店長の声が飛ぶ。やはり雨に濡れてやってきた客は、中年の男だった。
 こいつから匿えというのか? 見たところ借金取りという感じではないが、こいつからも金を騙し取ったんだろうか。
 男は血走った目で店内を見回している。
「お客様、メニューはこちらにございます」
 俺は済ました顔でカウンターの上のメニューを差し出して見せた。背後の武が息を呑む。男がいくら見回しても、店内に客はいなかった。
「あ、いや……」
 俺の声に弾かれたように視線を止めた男は、戸惑ったようにそう言ったきり逃げるように店を後にした。
 何だ、コーヒーの一杯でも注文しにカウンターまで来れば、もしかしたら武を見つけられたかも知れないのに。
 男が去っていく車のエンジン音が遠ざかった後で、武はやっとカウンターから出た。雨も滴る何とやらっていうのは、本当にあるんだなと溜息が漏れてきそうな濡れ姿だった。
「ひびき」
 雨を浴びた所為か、蒼白した顔で俺を上目に見た武は小さく溜息を吐き――珍しく弱音を吐くような口調で、言った。
「……今日、泊めてくれる?」