猟犬は傅く(9)
モトイⅠ
「あれ? ベッドは?」
モトイが帰宅すると、安里は既に夕飯の準備をしていた。しかし、家の中には何ら変わったところはない。モトイが朝出て行った時と、全く同じ状態のままだ。
「お帰りなさい」
キッチンの水道を止めて、安里がモトイを振り返る。
モトイが安里の家に帰るようになって、もうどれくらい月日が経ったのか知らない。いつの間にか、安里はモトイが帰ると「お帰りなさい」と言うようになった。
それはモトイにとって生まれて初めての言葉だったから、どういう意味なのかと尋ねると、安里はしばらく蝋人形のように固まってしまった。
安里が壊れてしまったのかと思ってモトイが安里の頬を叩くと、ようやく、安里は「わからない」と小さく呟いた。
「わからないのに、言うんだ?」
モトイが顔を顰めると、安里はわずかに瞳を揺らした。モトイが安里を縛り上げたわけでもないのに、苦しそうな表情だった。
だからモトイはその日はそのまま安里をいじめて、翌日になって茅島に「お帰りなさい」の意味を尋ねた。
「誰かが帰ってきたら、お帰りなさいと挨拶するんだよ。俺が事務所に帰ってくれば、誰かしら言うだろう」
茅島は呆れたような表情をして教えてくれた。
そんなことで安里があんな顔をするのもわからなかったし、モトイは柳沼と暮らしている間、そんな言葉を使ったことがなかった。
茅島にアイサツを教わったその日、モトイは安里に「お帰りなさい」と言われて「ただいま」と答えてみた。
その時の安里が浮かべた表情をなんていうのか、未だにモトイにはよくわからない。真っ白な顔をした安里が、泣き出すようにも見えたし、怒っているようにも見えた。安里が怒った顔なんて、見たことがないのに。
「タダイマ。……で、ベッドは?」
玄関に靴を脱ぎ散らかして部屋の中に歩み入る。部屋の奥を覗きこんでも、新しいベッドの影も形も見当たらない。
今日安里はベッドを買いに行ったのではなかったか。モトイが安里を振り返ると、安里はモトイの脱ぎ散らかした靴を揃えていた。
テーブルには既に夕飯のおかずが並んでいる。モトイは薄い腹を抑えて、椅子を引いた。
「配送を依頼したので、明後日には届くそうです」
安里はいつも通り、消え入りそうな声で淡々と答えた。
今日の夕飯は緑色の葉っぱを茹でて味を付けたものと、肉を焼いたものと、きんぴらごぼうと、味噌汁。モトイはふーん、と答えて、きんぴらごぼうを摘んだ。
「手を洗ってください」
叱るでもなく、安里が無感情な声で言った。モトイは生返事をしたきり、きんぴらごぼうの味をした指を咥えて、椅子の背凭れに身を預けた。
今日、すぐに戻ると言って事務所を出て行った茅島は確かにすぐ戻ってきた。
しかし事務所を出て行った時以上に荒れていて、あんな茅島を見たのはモトイでも初めてだったかもしれない。
「モトイ」
安里が濡れたタオルを持ってモトイの手を拭いにくる。モトイは黙って手を差し出した。
「……安里さ、茅島さんが怒ってるのって見たことある」
モトイの手を拭う、安里の冷たい指先がぴくりと震えた。
黒目がちの眸を覆い隠す睫毛を見下ろしながら、モトイは綺麗に拭われた手で安里の手を握り返した。安里は、小さく喉を鳴らしたようだった。
「――はい」
掠れた声。モトイが安里を掴む手に力を込めても、安里は身じろぎもしない。ただ、手の中の安里が血の気を失っていく感触だけがある。モトイは慌てて、安里の手を離した。
「ハラ減った。飯」
モトイが声を張り上げると、弾かれたように安里が顔を上げてから、小さく肯いた。
モトイの前に膝をついていた体を起こして、安里が茶碗を取りに向かう。その背中を見ながら、モトイは安里のせいで冷たくなった掌を握りしめた。
藤尾の話なんて聞かなければよかった、と今でも思う。
魂の抜けた人形のような顔をした安里が、モトイの暴力で苦痛の色に染まるのが楽しかった。ただそれだけだったのに、安里の魂がどこにあるかなんて、知る必要はなかったのに。
モトイが毎晩抱き枕のようにして眠っていても、安里の体は少しも暖かくならないのに。
「――最近、」
モトイの茶碗にご飯をよそいながら、安里がぽつりと呟いた。
安里の炊くご飯には白い米の他に、いろんな色が交じっている。最初はゴミみたいだと言ってモトイは嫌がったが、最近はそれが美味しいような気がしてきた。
モトイは安里と暮らすようになって、菓子を食べることが減った。柳沼と暮らしている頃は、よく食べていたけど。
「お忙しいんですか」
食卓に戻ってきた安里は、いつも通りだ。
モトイは安里に教わった通り「イタダキマス」と掌をあわせてから、味噌汁に手を伸ばした。
「うん、なんかね。色々めんどくさいんだって」
茅島は事務所で険しい顔をしていることが多いし、毎日何かと怪我人が絶えない。一度開店前に潰されてしまったお店ももうオープンできる状態になってるらしいのに、何かを警戒しているらしい茅島がまだ開店に踏み切れないでいるようだ。
そんなに面倒事が多いなら邪魔なやつを消しちゃえばいいのにとモトイが言うと、茅島は苦笑を浮かべて、お前は動くな、と言うだけだった。
「面倒くさい?」
安里が視線を上げて、モトイを見た。
その瞳に光が宿ったことに、モトイは気付かなかった。
毎日騒然としている事務所の空気を思い出しながら、モトイは肉に齧りついた。
「俺の出番はまだなんだって言われたから、よくわかんない」
難しいことはモトイにはわからない。しかし茅島や他の組員がざわついているのに、モトイの出番がいつになったら回ってくるのか、焦れったいだけだ。
「――……そう、ですか」
小さく呟いた安里が、ご飯を運んだ箸の先をガリと小さく噛んだ。
その唇に笑みが浮かんだことも、モトイは知らなかった。