猟犬は傅く(10)

椎葉Ⅴ

 茅島にいつから惹かれていたのかはわからない。
 最初は生まれて初めて対峙する暴力団の人間に気圧されないようにするので必死だったのに、茅島という男を知るにつれて、心を許せるようになっていった。
 それがいつから胸を締め付けるような気持ちになっていったのか、椎葉には自覚がなかった。
 ただ、突然態度を豹変させた茅島の手で強引に体を開かれても、それが茅島への嫌悪感には成り得なかったという時には既に、椎葉の中では茅島を慕う気持ちがあったのだろう。
 あんな乱暴を受けたのは、自分が茅島の気を損ねたのではないか――そう思う気持ちがあった。
 後になれば笑ってしまうようなことだが、あの時の椎葉には、男が同性を乱暴するなんてことは暴力と同義なんだろうと思っていた。それに劣情を感じる自分がおかしいのだと。
 茅島の告白を受けて気持ちを通わせるようになってからもしばらくは、茅島がいつ椎葉に飽きてしまうものかと思っていた。
 茅島に浮名の一つや二つ、十や百は珍しくもない。それならば、自分もいつかは茅島の記憶の残骸になるものかと。
 茅島に捨てられる覚悟ならば、したことがある。
 しかし、嫌われる努力をしようなどと思ったことはなかった。
 ましてや、それを茅島から言われるなんて思ってもみなかった。
「――……長、」
 視線を落とした書類の表面が明るく光を反射している。どうやら、いつの間にか朝が来ていたようだ。
 あの日、茅島が事務所を立ち去った後、しばらく座り込んでいた椎葉がどのようにして自室に上がったのかは覚えていない。しかし、幾つもの夜を茅島と過ごしたベッドに入っても寝付くことができず、頭をすっきりさせるためにシャワーを浴びて、ベッドに戻る気にもなれずスーツを着けるとそのまま仕事を始めてしまった。
 それきり、何日経ったのかわからない。
 茅島から連絡はない。
 そうでなくてもここのところずっと茅島は忙しかったのだから、あんなことがなくても連絡はなかっただろう。ただ、今後茅島の抱えているトラブルが解消した後も、もう椎葉への個人的な連絡はないかもしれない。
「所長」
 安里の相変わらず静かな声に顔を上げると、安里が受話器を持って立ち上がっていた。
 どうやら、随分と何度も呼びかけさせてしまっていたらしい。安里が用事もないのに立ち上がることなどまずない。そもそも、安里がいつの間に出勤してきたのかも記憶も曖昧だ。挨拶はきちんとしただろうか。自分は疲れた顔をしていないだろうか。
 もう何日も自宅へ上がっていない気がする。
 自宅には茅島が口を付けた食器も、茅島がうたた寝をしたカウチもある。茅島のために洗濯をしておいた下着も、茅島が買ってきてくれたワインも。
 それを眺めて過ごしていれば、茅島を嫌いになる努力などとてもできない。
 嫌いになることはできなくても、忘れることならできるかもしれない。仕事さえしていれば、椎葉は茅島のことを考えずにいられる。
 眠ることもできない。眠れば、茅島が夢に出てくる。とにかく椎葉は自分を忙殺しようと努めていた。
「所長、お電話です」
 内線を回します、と安里が静かに告げて、椅子に腰を戻した。
 椎葉は電話を取ると、重い頭を揺り起こすように小さく首を振った。目眩がする。眼鏡の度が合わなくなっているのかもしれない。
「お待たせ致しました。椎葉です」
 椎葉は片手で眼鏡を取り、目頭を摘みながら電話口に耳を傾けた。
『もしもし、迫だけど。……忙しかった? かけ直そうか』
 ぎくりと、背筋が緊張した。
 迫の声は研修時代を思い出させる懐かしいものであるはずなのに、どうしても同時に茅島と最後に会った日のことを思い出してしまう。
 あれは、何日前のことだったのか。昨日のことのようにも思えるし、もう半年も前のことのようにも感じる。
「あ、……あぁ、いや。何?」
 椎葉は机上に眼鏡を置いて、指先で額を抑えるようにして俯いた。血の気が引いていくようだ。前方で安里が席を立ったような気がする。コーヒーでも淹れてくれるつもりかもしれない。そういえばあの日、迫に出した緑茶の茶碗は洗っただろうか。
『今近くまで来てるんだけど、事務所にお邪魔してもいいかな。俺の事務所もようやく決まってさ。そのご報告』
 車が往来する気配をバックに、迫の声はいくらか弾んでいるようだ。新しい事務所が決まったのだから、無理もない。
 椎葉は目蓋を伏せると、小さく微笑んだ。
 同業の知人友人だって多いはずの迫が、いの一番ではないかもしれないが椎葉にも連絡をくれたことが単純に、嬉しい。友人の新しい門出を一緒に喜ぶことができるのは幸せなことだ。
「……そうか、おめでとう。今どこにいるんだ? お茶を淹れている時間はあるかな」
 椎葉が眼鏡を差して顔を上げると、給湯スペースで安里がこちらを振り返った。小さく肯く。事務所には既に淹れたてのコーヒーの香が漂ってきていた。
 久しぶりに目の前が明るくなってきたような気さえする。ここのところずっと、椎葉は視野が狭くなっていたようだ。相変わらず迫は、椎葉の気持ちを楽にしてくれる。
『実はそれが、……もう椎葉の事務所の目の前なんだけど。あと一、二分かな』
 電話口で迫が笑う。釣られて、椎葉も笑いが零れた。心が凪いでいくようだ。
 友達を大事にしなさいと教わったのは小学生の時分かもしれない。その意味が、ようやくわかる。あるいは茅島とも、友人のままだったらずっと変わらずにいられたのか。
 今となっては、そんな仮定も無意味なことだけど。


「突然ごめんね、椎葉の予定も聞かずに。すぐ帰るから」
 電話の通り、迫はものの数分と待たず事務所の扉をノックした。
 安里に、司法修習時代の友人なのだと説明している時間もなかった。
「事務所が、ここからすごく近くに決まったんだ。駅の反対側」
 いつかと同じように応接セットを挟んで座った迫が、今取ってきたばかりというような賃貸契約書を出して、住所を見せてくれた。
 確かに椎葉の事務所から徒歩でも十分とかからない。椎葉は目を瞬かせた。
「あぁ、……だからこの間、あのあたりで偶然出食わしたんだ」
「そうそう!」
 迫が手を打って笑う。安里がその腕を避けるようにしてコーヒーを差し出すと、迫は身を捻って安里を振り向き、笑顔で礼を言った。
「事務用品とかもこれから揃えなきゃいけないけど、うちも従業員確保しないと」
 にこりともせずに席に戻る安里を一瞥した迫が小さく息を吐く。
 事務所を開設してすぐにそんなことを懸念するということは、ある程度の依頼数を既に約束されているということなのか。椎葉は契約書に伏せた視線を迫に戻した。
「――それと、」
 不意に声を潜めた迫が、珍しく視線を伏せた。神妙な面持ちで、ソファを軋ませながら身を乗り出してくる。
「この間は、ごめん」
 安里の存在を気遣ってか、声のトーンを落とした迫が小さく頭を下げる。
 迫が何を謝っているのかは椎葉にもすぐに理解できたが、――迫が謝るような筋合いじゃない。
「あ、れは……むしろ、迫に申し訳ない、ことを」
 そうだ。
 椎葉と茅島がどんな関係であろうと、部外者である迫に不躾な態度をしたことに変わりない。
 そう言って謝ろうと思うのに、喉が詰まって言葉がうまく出てこない。迫は悪くない。茅島だって別に悪くはない。茅島の状況も考えず、友人だというだけで部外者を事務所へ招いた椎葉が悪いのだ。
「ちょっと、――うちのクライアントは特殊だから、……迫に嫌な気分をさせてしまって、……ごめん」
 顔を伏せていると、泣き出したくなってくる。
 茅島にも謝りたい。今は忙しいだろうから、いつになるかはわからないけど。
「でも彼、――茅島さんが心配するのももっともだからね。俺が、軽率だったよ」
 コーヒーカップを受け皿から取った迫が、神妙な声音のまま言った。
 椎葉が顔を上げると、迫は申し訳なさそうに眉尻を下げたままだ。
 茅島の名前を迫に教えただろうか。その場で茅島さんと椎葉が呼んでいたから、迫が知っていても無理はないが。
「ああ、でももう心配はいらないと言っておいてくれないかな」
 椎葉の訝しむような視線に気付いた迫が、目を瞬かせてから苦笑を浮かべる。
 コーヒーを受け皿に戻す硬質な音が、妙に椎葉の胸に響いた。
「俺のクライアントも、堂上会の人なんだよ。もちろん椎葉も知ってると思うけど――能城さん、って方」
「!」
 椎葉は思わずソファから腰を浮かせそうになって、膝の上で拳を強く握りしめた。
 体の芯が否応なしに震え出す。瞬きも忘れて、迫を見つめた。迫はなんでもない表情を浮かべたままでいる。
「だから、もう能城さんが椎葉を味方に欲しがって無茶をすることはないと思うよ。茅島さんに、そう伝えておいて」
 椎葉の空っぽの体の中に、心音だけがやけに大きく聞こえる。喉がカラカラに乾いて、安里が淹れてくれたコーヒーに口を付けたいのに、指が強張ってしまったように動かない。
「……なんて顔をしてるんだよ」
 言葉を失った椎葉に気付いた迫が、ふと息を吐くように笑った。
 時間を止めてしまった椎葉に対して、迫は何も変わらない。それが妙に、恐ろしく感じる。
「こんな仕事してたら、クライアントの関係で立場が変わることなんてよくあることだろ? 仕事は仕事、俺と椎葉が友達であることに変わりはないじゃないか」
 迫は昔から、椎葉を友達だといとも簡単に言ってのける。
 研修時代と同じように椎葉の肩に迫の手が伸びてくると、椎葉は思わず身を引いてしまった。過剰反応だと、わかっていても。
「椎葉、」
 伸ばした手を宙に彷徨わせて苦笑した迫から、椎葉は思わず目を逸らした。
 迫は友人だ。仕事上で対立する関係にあったとしても、友人であることに変わりはない。普通ならそうだ。しかし、能城の弁護をするなら話は別だ。
「迫、――……っ迫は、能城さんのことを知らないのか?」
 柳沼を卑劣な方法で利用していたことも、椎葉を拉致して茅島を誘き出したことも、――自分の手を少しも汚さずに茅島を殺そうとしたことも、椎葉にはまだ生々しい傷のように記憶に新しい。
「? ただのクライアントだよ」
 迫には、椎葉の動揺は理解できないようだった。
 当然のことだ。能城は自分がどんなにか汚い手を使っているのかなんて正直に告白はしないだろう。能城は証拠を持たない。椎葉を襲った人間だって、堂上会とは何ら関係のない街のゴロツキに過ぎなかったのだから。
「そう、……そう。――……そうだね」
 それならば、それを暴くのは椎葉の仕事なんだろう。
 法廷に持ち込むようなことではなくても、迫に突きつけることくらいなら。
「ま、これも何かの縁だよ。お互いベストを尽くそう」
 俯いた椎葉に呆れたような息を吐いた迫は、そう言ってソファを立ち上がった。
「事務所の住所が入った名刺ができたら、また持ってくるよ。……その前に堂上会で会うことになるかもしれないけど」
 そう言い残して、迫は事務所を出て行った。
 安里にご馳走様と言い残して行ったが、安里の返事はなかった。椎葉の耳に聞こえなかっただけかもしれない。椎葉は迫の潜った扉が閉じる音を聞いた瞬間、机の上の携帯電話に飛びついた。
 全身が総毛立っているように感じる。緊張している。
 迷わずに茅島の携帯電話をダイヤルした。能城が新しく弁護士を雇ったということを茅島はきっと知らない、それが迫だということも。
 茅島はだから言ったんだと怒るかもしれない、それでも、伝えなければいけない。椎葉の身の安全のためじゃない。茅島のために。
 縋るように耳に押し付けた携帯電話からは、数回の呼び出し音の後に留守番電話につなぐ旨のアナウンスが流れた。
 椎葉は一度通話を切ると、もう一度ダイヤルした。繋がらない。荒く弾ませた呼吸が震えているのが、自分でもわかった。
 もしかしたらもう茅島が危険な目に遭っているのではないかという不安さえ募る。
「安里くん、ちょっと出てくる。すぐに――」
 戻るから。
 椎葉がそう言い終えない内に、安里が扉の前に立っていた。
「私が行きます。茅島さんにお伝えすればよろしいですね」
 事務所の窓から正午の光が差し込んできているというのに、安里の顔はやたらと青白く見えた。思わず椎葉が息を呑むほど。
「な、――何を言ってるんだ? 安里くん、これはいつものお使いじゃないんだ。もし安里くんに何かあったら、」
「私はただの事務員です。顔が知られているわけじゃない。私に危害を加えて、誰が釣れるわけでもない」
 いつもの淡々とした安里の言葉が冷たく、深々と積もる雪のように椎葉の緊張を吸収していく。
 安里は人形のように強張った表情のまま、扉の前を動こうともしない。
「ダメだ、これは堂上会の――茅島さんの問題なんだ」
 ひいては、椎葉の。
 椎葉が安里を押しのけて事務所を出ようと安里の肩に手をかけると、その手首を掴まれた。
 ゾクリと背筋が竦むほど、冷たい手だった。
「いいえ、椎葉さん」
 安里の前髪が揺れて、白い顔に影が落ちた。
 一瞬、安里の赤い唇が微笑んだようにも見えた。
 何度やめてくれと言っても椎葉を所長と呼ぶことをやめなかった安里が椎葉の名前を呼んだことが、椎葉の目を錯覚させたのだろうか。
「これは、――私の問題です」
 狼狽した椎葉を昏い眸で一瞥した安里はそう呟くように言って、――事務所を出て行った。