猟犬は傅く(11)

安里Ⅱ

 あの日の夕焼けを今でも鮮明に覚えている。
 椎葉が攫われたと知った時、安里の胸中に渦巻いていたのは「出遅れた」という焦りに過ぎなかった。
 宇佐美が何かしら一枚噛んでいる男だということはわかっていたのに、或いは宇佐美を餌に能城まで辿り着くことができたかもしれないのに、あの時安里はモトイに気を取られて出遅れた。
 あの燃えるような夕焼けに照らされた椎葉法律事務所で、安里は藤尾の面影を掻き集めながら呆然と立ち尽くしていることしかできなかった。
 あの時攫われたのは椎葉で、傷ついたのは茅島で、柳沼は失脚し、モトイは牙を抜かれた。
 もうあんな下手は打たない。


 茅英組の扉を初めて潜ったのは、安里が退院してすぐのことだった。
 何事もなかったかのように安穏とした自宅に戻る気にはなれなくて、安里は病院から直接、茅英組にやってきた。
 当時の茅英組にはモトイはいなくて、組員は両手で足りるほどだった。大学生と言われても違和感がないくらい若く、暴力団然としていない綺麗な顔をした柳沼が事務所の留守番を主に努めていた。
 病院でも何度となく打ち合わせを――主に、安里の家族や学校にどのような言い訳をするかという相談を――していた柳沼は安里に対して気さくで、安里はしばらく、毎日のように茅英組に入り浸っていた。それでは困るんだと茅島が苦笑するほど。
 茅英組は変わった。
 安里が出入りしなくなってから組員は増え、茅島にも貫禄がついたように思う。
 それは、茅島に守るものが増えたということだ。組そのものや、組員の人生や、椎葉を守らなければいけなくなった。
 背負い込むものが増えれば、人は動きが鈍くなる。
 結局のところ、柳沼が茅島を殺すことを失敗したのだってつまりは、そういうことだ。
 安里が守りたいものは、この世にはもうない。
「失礼します」
 安里が茅英組の扉を開くと、そこには前回も見たような顔の組員が数人と、モトイがいた。
 あっ、と小さい声が漏れる。安里を羽交い絞めにして乱暴しようとしたおかげで茅島にこっぴどく叱られたのかもしれない。安里を見るなり背筋が伸びる組員もいた。
「安里」
 組員の髪を鷲掴みにしていたモトイが、扉口の安里に気付くとその場で勢いよく飛び上がった。
 見慣れない組員――安里を見て背筋を伸ばした数名――はモトイとも懇意だということを知らなかったのか、密かに顔を見合せている。
「何しに来たんだよ。今日水曜じゃないよ」
 鋼の仕込まれたブーツを打ち鳴らしながら、モトイが歩み寄ってくる。
 以前ならば、事務所で安里がモトイと関係があることを隠さなくてはならなかった。柳沼がいたから。安里がモトイに一瞥でもくれようものならそれを口実に非道い目に遭わせてもらったものだが、今は違う。
「茅島さんに、言付けを頼まれました。いらっしゃいますか」
 安里の前に立ち塞がるようなモトイを見上げると、一瞬、モトイが静止した。
 モトイは賢しい男だ、――と、安里は思っている。柳沼のような詭弁使いではない。茅島のような力もない。しかし、動物的な勘は強いのだろう。
「茅島さんなら、今出掛けてる」
 事実かどうかはこの際、どうでもいい。
 安里はそうですか、と小さく呟くと、息を吸った。
 久しぶりに呼吸をしたような気がする。何年ぶりだろう。あの時、観覧車を臨む港で自分の胸にナイフを突き立てて、安里は死んだつもりでいた。
 でも生きている。
 生きているけど、死んでいた。
 今は、ようやく息ができる。ずっと深海で息を潜めてきた魚の気分だ。
 肺の隅々まで酸素が行き渡って、息苦しい。
「では、茅島さんにお伝え願えますか」
 安里は双眸を細めた。
 モトイは安里にとって、大事な共犯者だった。感謝しても、し足りないくらい。
「能城さんが弁護士を雇ったそうです。相手は、椎葉先生の古い友人です。――そう、お伝え下さい」
「能城」
 モトイが、尖った歯の奥で小さく唸るように呟いた。
 茅島がモトイに能城のことを話さずにいたことは知っている。モトイは獣だ。血肉をぶら下げられたら、走らずにはいられない。
 きっかけを欲しがっている能城の思うツボにならないようにモトイの鎖を握ったつもりでいたのだろうが、馬鹿げたことだ。
「能城さんは法的に茅英組を脅かす手段に出るつもりかもしれません。能城さんが柳沼さんを失ってもう月日が経ちますし――」
「安里!」
 熱のような咆哮を間近で受けて、安里は目を瞠った。
 モトイの白いごわついた髪が、逆立っているように見える。安里が訪ねてきた時に見せた人懐こい犬のような面影はもうない。
 もう、目の前の安里のことも見えていないだろう。
「――ムダ口叩いてんじゃねぇよ」
 モトイの底冷えするような低い声が、安里の頬を撫でる。
 もうしばらく、聞いていなかった声だ。
「誰が柳沼さんの名前口にしていいっつったんだよ。お前には関係ないことだろ」
 安里は視線を伏せて、黙って肯いた。
 きっとモトイは、茅島が守ってきた均衡を崩してくれる。それでいい。
「――はい」
「わかったら帰れよ」
 モトイの細い腕が安里の肩を突き飛ばして、事務所の扉を勢いよく閉めた。
 モトイは今晩安里の家に帰ってくるのだろうか。それとも、柳沼に拾われる前のように路上で寝泊まりするつもりか。気紛れに安里を抱きにくるかもしれない。
 もしかしたらそれが、最後になるかもしれないけど。
 モトイに突き飛ばされて尻餅をついた安里がゆっくりとその場を起き上がってビルの出口に向かうと、入れ違いにやってくる男の影があった。
 見覚えのあるスーツ姿だ。もうすっかり、老けてしまったけれど。
「千明さん」
 男が顔を上げる。
 声の主を見ると、珍しく狼狽したような表情を浮かべた。
 そんなにおかしなことだろうか。安里が声をかけることが。
「こんにちは」
 いつもは苦虫を噛み潰したような顔しかしない千明の反応が可笑しくて、安里はその脇を笑いながら通り過ぎた。 
 もうずっと何年も停まったままだった世界が、ようやく動き出すような気がする。


 安里が望んだ、滅びに向かって。