猟犬は傅く(8)

椎葉Ⅳ

「そう言えば、栗林先生って覚えてる?」
 応接セットの椅子に座った迫が、身を翻して椎葉を振り返る。
 立ち話もなんだからと事務所に誘うと、迫は快諾した。モトイに声をかけられたことで、椎葉が暴力団に関係する弁護をしていると明らかになったことだし――とはいえ、迫はそれ以上のことを椎葉に尋ねなかった。守秘義務を考慮してのことかもしれない。迫は一瞬狼狽したように見えたが、それでもそこで思いとどまってくれた。
「民弁の?」
 事務所の片隅にも受けた給湯所から椎葉が迫を振り返ると、破顔した迫が「そうそうそう!」と明るい声を上げた。
 一般的な法律相談所と違って依頼人が訪れることが多くないこの事務所に、まるで新しい風が吹き込んでくるようだ。
 迫は研修所時代から屈託のない男だったが、検事時代を経てもまだそれが変わっていないのは驚きだった。もっとも、だからこそ検事を辞めることになったのかはわからないが。
 迫が椎葉のクライアントについて深く尋ねないように、椎葉も迫の個人的なことには立ち入らないようにした。
 それでなくても、椎葉にとって友人と呼べる相手など殆どいない。高校時代までの友人は地元で家業を継いでいるか、上京してきてからのことは知らない。大学時代に友人と呼べるような相手とも、ろくに連絡を取り合ってない。今暴力団の顧問弁護士をしていてね――なんて、なかなか言えるようなことじゃないのだから、仕方がない。
「この間、日弁連に登録に行ったら久しぶりに栗林先生に会ってさ。またすっごい嫌味言われちゃったよ」
 緑茶を応接セットへ運びながら、椎葉は民事弁護の講師だった栗林弁護士の甲高い声を思い出して肩を震わせた。
「それはご愁傷様。迫は先生からの覚えも良かったからね、それが仇になったんじゃないかな」
 迫が大袈裟に頭を抱えて項垂れた。その姿に、また椎葉の手が震える。迫のスーツにお茶を零してしまいそうだ。
「ありがとう。……ここの三階が自宅なんだ? すごいね。一等地」
 お茶を差し出された迫がおどけた顔を上げてソファに座り直すと、椎葉もその正面に腰を下ろした。
「まあ、不相応の待遇だと思うよ」
「それだけ期待されてるってことだろ」
 迫が双眸を細めて微笑むと、椎葉は首を竦めて視線を伏せた。
 会長の、息子のようだと言ってくれた言葉を思い出す。最初からそう思ってくれていたわけではないことはわかる。椎葉が会長と少しずつ接してきた結果だと思う。
 この家を初めて訪れた時は、案内してくれる茅島がこんなに愛しい存在になるなんて思わなかったし、この事務所に見合うだけの働きを自分ができるのか、正直不安でいっぱいだった。
 今やっと、会長の気持ちに応えることができているのかもしれない。
「そんな表情をするんだな」
 正面で、ふと迫が笑った。
 慌てて顔を上げると、迫は揶揄うような顔で椎葉を見ていた。
「和光では椎葉って実はアンドロイドなんじゃないかってもっぱらの噂だったけど」
 椎葉は眼鏡の奥で、目を瞬かせた。アンドロイド。どうして突然そんな単語が飛び出てくるのか理解できなくて、返答もできない。
 椎葉が茶碗を持ったまま言葉に詰まって迫を見つめていると、迫が我慢できなくなったようにぶはっと吹き出した。
「あ、ごめん。……いや、そんな顔もけっこう新鮮かも」
 訝しがる椎葉をよそに迫は口元を掌で覆って、体を折るようにして笑っている。
 椎葉が何をしたわけでもないのにこんなに笑われることは心外だが、別に悪い気はしない。ただ、不可解なだけだ。椎葉は迫の震える肩を見下ろしながら、お茶を一口啜った。
 眼鏡が曇る。
 迫はまだ苦しそうにしているので、その間に椎葉は眼鏡を外して、レンズを拭った。
「いや本当、悪い意味じゃなくて……なんていうのかな、表情豊かになったなと」
 その自覚はある。
 茅島のおかげだ。
 子供の頃は、警察官の父親に厳しく躾けられてきた。弁護士を目指すようになってからは、司法試験に受かるまで死にものぐるいで勉強してきたし、二階試験に合格して始めて、椎葉は人心地つくことができたと思っている。
 そこに茅島が食事に誘ってくれたり、酒の味を教えてくれた。
 椎葉はそれまで遊ぶことを知らずに生きてきたから、茅島ともしこんな関係にならなかったとしても――茅島には、感謝してもしきれない。
 しかし茅島を愛すようなことがなければ、あるいは、茅島に教えてもらった遊びも椎葉の胸には楽しいことだと響くことはなかったのかもしれない。
 茅島が教えてくれたことだから、茅島が一緒だったからこの数年間、楽しい事ばかりだったのか。
「――……、」
 いったい自分はいつから茅島に惹かれていたのだろうと考えると、顔が熱くなってくるようだ。
 その時、事務所の扉向こうから、足音が聞こえてきた。乾いた革靴の音。椎葉が反射的に顔を向けると、迫が窺うように見た。
 今日は休日だ。安里が来るはずもないし、来客の予定などない。それに、この靴音は――
「先生、いらっしゃいますか?」
 ノックよりインターホンより先に、声が聞こえてきた。
 思わず、迫を見た。もしかしたら幻聴かもしれないと思ったのだ。茅島のことを考えるあまり、茅島が訪ねてくる幻聴を聞いてしまったのかもしれない。
「椎葉、ごめん長居して――」
 迫が気を利かせて、腰を浮かせようとする。
「先生?」
 ついで、ノックの音。
 そうやら幻聴ではないようだ。椎葉は弾かれたように立ち上がると、迫を掌で制した。
 胸が弾むように強く打っている。また迫に笑われてしまうかもしれないが、口元に笑が浮かんでくるのを止められない。
「はい、どうぞ」
 言いながら、椎葉は事務所の扉に駆け出していた。
 扉のすりガラス窓に、茅島の大きな影が写っている。今日はもう会えないと思っていたのに。背後に迫がいなければ扉を開けてすぐにでも抱きついてしまいたい。そんなはしたないことをしたことはないけれど。
「茅島ですが、――」
 茅島が名乗っている途中で、椎葉は勢いよく扉を開いた。開いてから、今日はどうせ茅島も訪ねてこないだろうと思って適当な部屋着でいた事に今更気付いた。今まで迫といても何とも思わなかったのに、急に気恥ずかしくなってくる。
「茅島さん、どうされたんですか? いらっしゃるなら、ご連絡くだされば良かったのに」
 茅島は昨夜の服装のままだ。髪も後ろに固めていない。よほど忙しいのだろうか。椎葉が開けた扉から事務所を覗きこんだ目が、一瞬鋭く見えた。
「……茅島さん?」
 椎葉が初めて堂上会で会長と対面した時、茅島は獰猛な狛犬のように見えた。ぴたりと静止して牙を隠しているくせに、いざとなれば素早く急所を狙ってくる獣のようだと。
 今の茅島は、その時の表情を思わせた。
「先生、来客中でしたか」
 ついと、茅島が椎葉を見下ろす。茅島は無意識なのかもしれない。しかし、茅島の微温湯のような愛情に慣れてしまっていた椎葉には、緊張を強いるような面持ちだった。
「何かあったんですか?」
 椎葉は震えそうになる自分を叱咤して、背筋を伸ばした。浮かれていたのが恥ずかしい。茅島は今戦場にあって、椎葉の様子を見に来ただけかもしれない。
「そちらの方は?」
 掠れた低い声を響かせて、茅島が迫へ視線を戻す。
 迫は驚いたように口を噤んで、ソファから立ち上がっていた。
「私の司法研修時代の友人で、迫といいます。買い物に行った先で偶然会って――……」
「知らない男ですね」
 茅島は、迫から視線を外さない。突き刺さるような眼で捉えられて、迫は完全に気圧されている。当然だ。椎葉にもその気持ちは十分わかる。
「ええ、研修所を出てから初めて会いました。彼は以前検事をしていて、これから弁護士になるというので、いろいろ話をしていたんです」
 椎葉は茅島と迫の間に入るように回りこむと、茅島の胸にそっと掌を置いた。
 茅島が今、具体的にどんなトラブルの中にいるのかはわからないが、神経質になっているのはわかる。だから迫のことも警戒したいのだろう。しかし、迫はれっきとした法曹界の人間だ。心配するようなことじゃない。
「先生、この事務所はうちで用意した事務所です。登記上はあなたの持ち物だが、自由に使っていいということじゃない」
「っ、」
 驚いた。
 茅島が、そんなことを言うとは思わなかった。言っていることはもっともだから、反論の余地はないが。
「椎葉、ごめん。俺がちょっと軽率だったよ」
 迫がソファの上の鞄を取って、努めて明るい声を上げた。
 入り口を塞ぐように立った茅島を気にしながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。椎葉は慌てて茅島の胸から手を離した。
「迫、あの――……」
「氏は間違ったことを言ってない。次は、外で会おう」
 椎葉に微笑んでから、迫は茅島に向き直って小さく会釈した。それから、ゆっくりとした動作で鞄を開き、名刺を取り出す。
 茅島は迫の動作を見定めるように、終始双眸を細めていた。
「迫と申します。事務所はまだ設けていないので、連絡先は自宅になりますが。ご心配であれば、調べてくださっても構いません」
 名刺を差し出した迫は茅島を見返したが、腰が引けている。無理もない。茅島にこんな調子で敵意を剥き出しにされたら、椎葉だって逃げ出したくなる。
「じゃあ椎葉、またな。お茶、ご馳走様」
 迫はそう言うと、茅島の脇をすり抜けて足早に事務所を後にした。慌ててその後ろ姿を追おうとすると、茅島に肩を掴まれる。
「茅島さん、……あんな言い方する必要はありません」
 後ろ手に扉を閉めた茅島に向き直ると、迫の名刺を胸のポケットにしまった茅島は、まだ警戒を解いていないような険しい表情のままだった。
 せっかく会えたのに、こんな顔をされるのは嫌だ。
 それに、椎葉にとって数少ない友達を茅島に会わせることができたら、もっと嬉しいかと思っていたのに。
 茅島は黙って部屋を横断すると、事務所を出ていった迫が帰っていく姿を確かめるように窓辺に寄った。
「茅島さん!」
 椎葉が声を荒げて初めて、茅島が椎葉を一瞥した。まるでまだそこにいたのかとでも言いたげな目付きだ。
 確かにこの事務所は堂上会のものだ。そこに住まわせてもらっている椎葉も、堂上会の所有物のようなものかもしれない。しかし、それを他でもない茅島に言われるのは少なからずショックだった。
「先生、……私は今、トラブルを抱えています」
 多少語気を弱めた茅島が、ソファに腰を下ろして、椎葉が飲みかけの茶碗を撫でた。
「……察している、つもりです」
 椎葉は入口の前から動けなかった。
 さっきまで、事務所の中には暖かな空気が充満していたような気がするのに。それは、前日の椎葉が久しぶりに茅島を迎える期待を膨らませていた余韻も混じって。
 それなのに今は、当の茅島本人がいるというのにひどく寒々しくて、刺々しく感じる。
 刺々しいのは椎葉自身の心の問題かもしれない。
 茅島からしてみたら当然で、仕方のないことなのかもしれない。しかし。
「司法修習時代、世話になった友人なんです」
 うつむいて、椎葉はぽつりと呟いた。
 迫は誰とでも分け隔てなく明るく接して、誰よりも起案が早いのに、自分の分が終わると他の人間を手伝ってくれるような男だった。
 それじゃ本人のためにならないと言う人間もいて、迫はもっともだと頷くと「じゃあ、俺ホチキス係な」と笑っていた。
 椎葉はギリギリまで粘ってあらゆる可能性を考慮する性質だったから、提出期限ギリギリになってホチキスの争奪戦になった時、実際迫の世話になったことは多くある。
 茅島にとってはくだらないことかもしれない。
 でも、椎葉にとってはそんな他愛のないことが大切な思い出なのに。
「……っ茅島さんは、義理を大事にされる方だと思ってました」
「あなたがまた攫われでもしたらどうするつもりですか!」
 茅島の掌がテーブルを打った。茶碗の中で水面が大きく揺れ、テーブルの上に飛沫が飛ぶ。椎葉は茅島の声に弾かれたように、事務所の扉に背中を押し付けた。
 椎葉を守るために言ってくれているのだとわかっているのに、怖い。
「昔の友人だかなんだか知りませんが、気を付けるに越したことはない」
 忌々しげに吐き出した茅島が、ソファを立ち上がった。椎葉に呆れているようだった。少なくとも、今の椎葉にはそう思えた。
「何かあってからじゃ遅い」
 茅島の足音が近付いてくる。椎葉は顔を上げることができなかった。立っているだけで精一杯だ。
 扉に寄りかかった椎葉の肩に、茅島が手を伸ばした。一瞬抱きしめてもらえるのかと思ったが、すぐに扉から退かされて、茅島がドアノブを捻る。
 事務所の戸が開くのと一緒に、椎葉の心の中にも大きな空洞が開くようだ。
「――不服があるようでしたら、私から嫌われる努力をしてください」
 茅島は椎葉を見ずにそう告げると、あっけなく事務所を後にした。
 ゆっくりと茅島の足音が遠ざかって、聞き慣れたBMWのエンジン音が往来へ走り去っていく。
 椎葉は思わずその場に座り込むと、今あったことが悪い夢だったかのように思えてきた。
 茅島に嫌われる努力?
 そんなこと、できるはずがないのに。