猟犬は傅く(7)

茅島Ⅱ

 一ヶ月前の小火騒ぎのせいでオープンが大幅に遅れたクラブが、一週間後にはなんとか改めて開店できそうな目処が立ってきた。
 店内の装飾はほとんど焼け焦げ、内装は総取り替え、オープン初日を告知していた客への招待状も出し直した。一ヶ月もの間営業できなかった分も合わせると、赤字の桁を数えるのも頭が痛い。それでなくても、他の店舗を取り潰してまで大々的にオープンする予定だった店だ。
 首謀者の少年は実際本当に未成年だった。賠償金を請求しようにも、養護施設育ちで迂闊に手を出せない。能城との関係も、今のところ証拠を出すことはできない。
「会長は元気なのか」
 黒革のソファにゆったりと身を沈めて紫煙を燻らしているのは、千明だ。そうしていると、一家を構えたほうが良いのではないかと思える迫力がある。実際、半端なやくざ者よりずっと腕が立つ。
「ああ、お陰様で」
 茅島は乱れた髪をそのままにして自分のデスクの椅子に凭れていた。
 昨晩ほとんど眠っていないおかげでいつも以上に体が重いが、つらいとは感じない。いくら眠れなくても神経を張り詰めていても、椎葉に会えないほうがずっとつらい。
 そんなことを言ったら腑抜けだと揶揄されるかもしれない。以前は、そう思っていた。今となっては守れる者のいない男のほうがずっとみっともないと感じる。
 物心ついて以来、極道に生きる男として男ということを意識して生きてきた。男とは何か、弱さを持たないことか。強くあることか。隙のないことか。器の大きさか。椎葉を愛すようになって、共に生きる人を見つけて、茅島はようやく男というものがわかってきたような気さえする。これが生きるということだということも。
「お前はお前のことで手一杯かもしれないがな、会長にも十分注意しろよ。今会長に何かあれば、面倒になる」
 千明はぼそぼそと呟くような声で言って、若い構成員の出したコーヒーに手を伸ばした。
「誰に物を言ってる」
 そんなことは百も承知だ。
 能城が茅島にしきりと小さな嫌がらせを絶やさないのは、会長から茅島を引き離すのが目的かもしれない。茅島はいつか撃ち抜かれた肩の傷にそっと触れた。能城が狙っているのが会長なのか、あるいは茅島なのか知らない。どちらでもいいと思っているのかもしれない。
「苦いな」
 千明は口端を大きく引き下げてコーヒーカップをテーブルに戻すと、口直しを求めるように煙草を銜えた。
 かつて、柳沼が淹れるコーヒーは絶品だと千明はしきりに褒めていた。茅島は千明と長い付き合いになるが、千明が人を褒めるのを聞いたのは後にも先にも、それきりだ。
「……まあとにかく、安い挑発には乗らないことだ」
「そんなわかりきったことを言うためだけに来たのか?」
 ソファの表面をぎっと軋ませて立ち上がった千明に茅島が首を竦めると、千明も節くれだった手で顎の髭を撫でた。
 珍しく、千明が言い淀んでいるように見えた。
 悪い予感が、茅島の足元から這い上がってくる。茅島はそれを踏みつけるように、椅子を立ち上がった。
「随分と煮え切らないじゃないか、お前らしくもない。ご要望とあれば、酒の一杯でも奢るよ」
 千明とは今まで持ちつ持たれつでやってきた。あからさまな賄賂こそないが、それなりの働きをしてもらえば、それなりの誠意を見せてきたつもりだ。それが刑事とヤクザの友情のようなものだと、茅島は思っている。千明だってそう思っているはずだ。
「お前と違って俺は仕事中なんでね」
 煙草を摘んだ手を振って、千明が顔を顰める。笑ったつもりかもしれない。身を屈め、テーブルの上の灰皿に吸い殻を押し付けた千明が再び身を起こした時、小さく息を吸った。茅島も、息を詰める。
 その時、茅島の部屋のドアがノックもなく開け放たれた。
「茅島さん、コーヒー買ってきたけど」
 飛び込んできたのは、モトイだった。
 ノックもなしに入ってくる組員なんて、モトイ以外にはいない。
「モトイ、来客中だ」
 茅島が睨めつけても、モトイはビクともしない。ただ千明の姿を見止めると露骨に表情を歪めた。
「意外と懐いてるじゃないか」
 千明が肩の力を抜いたように息を吐くと、茅島は額に落ちてくる髪を掻きあげた。仕切りなおしか。正直、舌打ちでもしたい気分だった。
 しかしモトイにコーヒーを頼んだのは茅島だ。モトイを叱っても仕方がない。
「相変わらず問題児だよ」
「それにしてはよく面倒を見てる」
 茅島が一度浮かせた腰を椅子に勢いよく落とすと、モトイが机までコーヒーの粉を運んでくる。
 このコーヒー豆にこだわっていたのは柳沼だ。今となっては良い豆を使うだけ無駄だが、それでも茅島はモトイにこの豆を買いに行かせている。モトイが嫌だと言えばそれで承知するつもりだった。しかしモトイは他の若い人間にこの使いを任せることはなく、コーヒーが切れれば自分で買いに行きもする。今となってはモトイが柳沼と繋がっていられるのは、このコーヒーくらいのものだ。
「モトイはうちの人間だ。一度盃を交わした人間をおいそれと捨て駒のようには扱えないさ。どっかの狐じゃあるまいし」
 茅島が吐き捨てるように言うと、モトイが薄い唇を小さく震わせたような気がした。気のせいかもしれない。
「――……そうだな」
 千明が低い声を、搾り出すように漏らした。
「お前は、極道の人間だからな」
 その声が部屋の空気に消えたきり、千明は何も言い出さなかった。茅島も千明が話し出すまで、何を言い出すつもりもない。駆け引きでもなんでもない。千明が話せないことなら、聞き出そうとしても無駄なことだ。
「そういえば、センセーに会ったよ」
 茅島の机の傍らでコーヒー豆の入っていた袋を畳んでいたモトイが、不意に思い出したように声を上げた。
 沈黙が耐え切れなくなるような人間じゃない。ただ単純に、思い出したのだろう。
「そうか」
 茅島は自分も机の上のシガリロに手を伸ばしながら、茅島が帰った後椎葉がどのような休日を過ごしていたか、ふと思いを馳せた。
 茅島がベッドを抜け出した時は、まだ気絶したように眠ったままだった。
 しばらく会えなかった分、これからもしばらくは思うように会えない分をたっぷりと刻みつけたつもりだったが、いざ離れようとするとまだ足りなく感じた。おそらく、椎葉もそう思ってくれているだろう。
「なんか知らない男と一緒だったけど、浮気?」
 茅島がシガリロを取る手を震わせると、千明がそれを目敏く見つけて眉を震わせた。
「それは、どんな男だった」
 先に口を開いたのは千明だった。
 茅島はシガリロから手を離すと携帯電話に向けた。椎葉が浮気なんてしないことは疑うまでもないことだ。電話をかけるなら、椎葉ではない。
「モトイ、今日安里は家にいるのか」
 手の中の携帯電話は既に安里の電話番号を表示させている。
 安里の名前を聞いて、千明が双眸を細めた。千明なりに、安里のことを気にかけているのは知っている。もしあの時安里が死んでいたら自分が止められなかったせいだと、千明はいつかぽつりと漏らしたことがあった。
「安里? 今日は出かけてるけど」
 ビニール袋を結局うまく畳むことができずに、モトイは手の中でくしゃくしゃと丸めてゴミ箱に放った。ゴミはこの縁に嫌われて、床にはらりと落ちる。
「どこへ」
「なんか、ベッド買いに行くって。俺がしょっちゅう蹴りだしちゃうからじゃない」
 茅島は発信ボタンを押すことを躊躇った。
 先日、茅島に食って掛かった安里の暗い目を思い出す。
 安里ももう、新しい人生を始めるべきだ。いや、もう始まっているのかもしれない、モトイとともに。
 藤尾の仇だと安里を茅島のもとに縛り付けておくのは、安里を殺しているのも同じだ。
 いっそ、忘れさせてやった方がいいのではないのか。椎葉の事務所からも離して、モトイと不自由のない生活を送れるようにしてやるべきなのかもしれない。
「茅島」
 千明が、茅島の迷いを見透かしたように呟いた。
 茅島は黙って携帯電話を閉じると、上着のポケットに滑り落とした。
「モトイ、――すぐに戻る。何かあれば、電話を寄越せ」
 それでも、椎葉の身が心配であることには変わりない。茅島の脳裏には宇佐美という男の好青年然とした顔が過ぎっていた。
 部屋の入口で立ち尽くした千明に小さく頭を下げて、通り過ぎる。
 椎葉の無事を確認したら、それでいい。茅島は足早に事務所を後にすると、愛車に乗り込んだ。